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【感想】劇場版魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語

 

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映画の新作が決まったということで、実は見たことがなかったまどマギ劇場版を履修しました。あんさやが可愛かったので満足です。アニメを見たのがかなり前で内容を曖昧にしか覚えていなかったので総集編の方の劇場版もチェックしました。これで本編は見たことになると思いますが、漫画版や外伝作品、マギレコには触れていません(マギレコはアニメを3話くらいまでしか見ていません)。

 

 「まどマギ」が魔法少女もののアンチテーゼ作品であることは周知の事実です。「まどマギ」の従来の魔法少女ものとの決定的な差別点は「コスト」にあります。本作での魔法少女は「願いを一つ叶える」リターンを得る代わりに「魔女と戦わされる」「肉体がソウルジェムに変換される」「最終的に魔女化する」などの莫大なコストの支払いを要求されます。リスク面の説明が不十分な状態で契約を結ぼうとするからキュウべえは嫌われているわけです。ただしキュウべえ魔法少女になることは命懸けであることは最初に伝えているし、願いを前払いで叶えている点では正しく契約を履行しています。さやかの「恭介の腕を治す」願いも杏子の「父親の説教を聞いてほしい」という願いもきちんと叶っています。その結果ヒトミに恭介を取られたり、願いをきっかけに杏子の家族が破滅しても契約は正しく成立しているのでキュウべえが糾弾される謂れはないのです。この場合問題なのは彼女たちの真の望みと実際の願いが乖離していることであり、結局はコミュニケーションの問題でもあるわけです。アニメでは最終的にさやかも杏子も運命を受け入れて、願いについての問題は解決したかのように思えます。

 ただし暁美ほむらについてはアニメ版では問題が未解決のままです。ほむらの契約の際の願いは「まどかとの出会いをやり直すこと」です。そして本当の望みはやり直しによってワルプルギスの夜を倒し、彼女と平穏な日々を過ごすことでした。ところがやり直しによりワルプルギスの夜を超えるとまどかが魔女化してしまい今度も彼女は本懐を遂げることができません。また、まどかを魔法少女にさせないようにすると今度はワルプルギスの夜を超えられず、ほむらは何度もループし世界をやり直すこととなります。

最終的にアニメ版ではまどかが契約の際に「全ての時間軸、平行世界で魔女の存在を抹消する」ことを願うことで過酷な魔法少女システムそのものを改変して解決を図ります。願いの代償に最後には必ず魔女となり絶望的な結末を迎える魔法少女システムを、魔女の概念をなくし円環の理にすり替えて成仏できるようなシステムに書き換えたわけです。

ただこれは実際は根本的な解決にはなっていません。なぜなら魔法少女システムは最初に各人の叶えたい欲望があって、願いを叶える手段としてコストの支払いが付随するシステムなので、まどかがコストの支払いとしての魔女化を解除しても各人の欲望はそのまま残るからです。彼女たちの願いは莫大なコストが発生することを分かっていても叶えたいもののはずで、成就の手段をまどかが無効化しても欲望そのものが無効化されることはありません。

ほむらの真の願いはまどかと日常を過ごすことであり、それはまどかとワルプルギスの夜を超え、尚且つ彼女が魔女化しないルートがあれば叶えられたものでした。ところがアニメ版の結末ではまどかが円環の理となり彼女との接触が不可能となってしまうことで、ほむらの願いは永久に叶わなくなってしまうわけです。まどかのことを記憶している唯一の存在として戦い続けても、ほむらが満たされることはなくソウルジェムは濁らざるを得ません。まどかが創造したユートピアはほむらにとってはディストピアでしかなく、ゆえに「叛逆の物語」で彼女は立ち上がることになるわけです。

 

「叛逆」では中盤まではほむらが創造した心象世界が描写されます。ここではメインキャラ5人全員が生存し、共に魔法少女として日常を過ごしています。ここでの魔法少女とは、本編の救いのない制度ではなく、従来の魔法少女もののような明るい世界観のものです。ほむらはまどかと日常を過ごすことができているし、魔法少女システムもポップなもので、誰にとってもユートピアに思えます。ほむらは次第にここが茶番の世界であることを認識していきますが、まどかとの対話においてこの世界を棄却することを決意します。なぜならこの世界においてもまどかは救われていないからです。アニメ10話において、まどかは世界をやり直して自身を救ってほしいとほむらに依頼します。この言葉は呪いのようにほむらに残っており、彼女は自身の願い以上にまどかの願いを尊重することになります。行動原理の全てであるまどかの幸福を追求することは、自身の幸福よりも尊重しなければならない事項であるわけです。円環の理となって永久に孤独な存在になってしまったまどかを救うために、ほむらは茶番の世界から抜け出します。

補足:そもそも心象世界においてまどかは本当にほむらに救いを求めていたのかは怪しいところです。まどかは魔法少女が命懸けであることを知っても、大した願いもないのに人助けのために契約を結ぼうとするほどのお人好しです。彼女が円環の理となったのも、自身が概念となってしまうことを理解した上でほむらだけでなく全ての魔法少女を救済するためのもので、異常なほどの自己犠牲精神を持った人間と言えます。彼女が救われるということは、円環の理を破壊し従来の魔法少女システムに戻ることを意味するわけで、そこまで加味するとまどかは自分を犠牲にしたままで円環の理を維持することを選択する気がします。会話の場所はほむらの心象世界なのでこの世界のまどかの人格はほむらから見たまどかと考えるのが妥当で、まどかの発言もほむらの思い込みに過ぎないと僕は解釈しています。

 

現実世界に戻るとキュウべえの策略もありほむらはソウルジェムが濁りきって魔女化する寸前でした(円環の理システムではほむらの願いは永久に叶わないため)。本来魔女化とは魔法少女が支払う最大のコストですが、欲望の成就のためならコストを歯牙にもかけないほむらは望んで魔女になります。魔女化した彼女はマミら存命の魔法少女に倒され、円環の理に導かれ成仏する寸前にまどかに襲い掛かります。ほむらの「まどかと日常を過ごす」という願いも、「まどかを救う」という願いも、円環の理を破壊することでしか成就できないからです。ほむらにとっては自身が理となり、永遠に成仏できない悪魔となってもまどかを救うことが最大の願いだったのです。

「世界を改変しコストの支払いをなくし、全ての魔法少女を救済したまどか」と「世界を改変しまどか一人のためにコストの支払いを受け入れ願いを成就させたほむら」は対の存在と言えますが、自己犠牲の精神は共通しています。違うのは行為の対象が全ての魔法少女か一人の少女かどうかだけで、まどかが正しくてほむらが間違っているという理屈は存在しません。

 

 

僕が叛逆で好きなのはラスト10分の展開にあります。

ほむらの改変後の世界ではまどかが転校生としてやってきます。ほむらは「あなたは個人的な欲望よりも世界の秩序を選ぶの?」と問います。これは前者がほむらの行動、後者がまどかの行動に対応しており、まどかは「うん。自分勝手にルールを変えるのはよくないと思う。」と答えます。あらゆる犠牲を払ってまでまどかを救済したのに、本人にそれを否定されてしまい彼女は愕然とします。何よりも大切なまどかに託された願いが叶った時点でほむらの願いも達成されたように思えますが、ほむらは本当はまどかの愛が欲しかったのです。どこまでも他人のために尽くせるまどかと違い、ほむらは本質的に自分への見返りを求めていたのです。結果的に世界は良い方向に進んでもほむらは完全には救われませんでした。この真の望みと実際の願いの乖離の残酷さがまどマギらしくて、僕は好きな終わり方でした。

加えて、こういう一般的に見て小さな動機からそれに見合わない多大な自己犠牲的行為が発生する展開は個人的に大好きです。例えば「一宿一飯の恩義で命懸けの戦いに挑む」とかがそれにあたります。まどマギではほむらの行動原理の全てはまどかですが、二人は付き合いがそれほど長いわけはないただの友人でしかありません。孤独だったほむらに手を差し伸べてくれたまどかは確かに尊い存在ですが、そのために命を懸けられるかと言われると普通はそこまでできないと思います。その意味でこのパターンの展開は同性の友人関係である必要があります。これが恋人や親子だったら命を懸ける正の動機付けになるからです。ただの友人のために無限の自己犠牲を支払う覚悟があるからこそ、ほむらは自身の行動を「愛」だとキュウべえに語るのです。