どりふてぃんぐそうる

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『スパイダーマン ノーウェイホーム』の感想

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今年は映画を見ようと思い、手始めにフェーズ3までのMCU23作+スパイダーマン過去5作+ヴェノムの計29作品を見ました(ヴェノム2はまだアマプラにありませんでした)。この2週間の余暇の大半を潰しましたが、リソース以上にいい体験をしました。どの作品も単純にアクションが見ごたえがありますし、シリーズを通してのヒーロー像の変遷が面白いなと感じました。

これからMCUシリーズを通したNWHの感想を書いていきますが、MCUシリーズの思想変遷についてはLWさんの記事が非常に参考になりました。とても完成度の高い記事なので是非読んでみてください。

saize-lw.hatenablog.com

 

フェーズ1は超越的な力を持つヒーローが武力と平和の象徴としてヴィランを倒す正義の時代で、正義VS悪の単純な対立構造です。ところがフェーズ2では超人一人に平和の責任を押し付けるシステムの失敗が描かれます。『アイアンマン3』『マイティ・ソー/ダークワールド』で彼らはヒーローの責任に耐えかねて超人的な力を手放します。またアベンジャーズのように複数の武力を配置し責任を分散させても、彼らの中で思想や利害の不一致から一枚岩にはなれず失敗することが示されました。そしてフェーズ3では彼ら自身が己の出自と向き合う実存の時代へと変遷してきました。

 

ここまで確認してきたヒーローたちと、スパイダーマンであるピーターの決定的な違いは、前者は大義のために活動する大人であるのに対して後者は私生活を捨てきれず大義も果たそうと夢想する子供であるという点です。MCUシリーズではフェーズの進行に伴って戦いの規模が国内→地球→宇宙規模へと拡大し、ヒーローらは大義のために自分のプライベートを犠牲にせざるを得ませんでした。スタークもソーもヒーロー活動が原因でヒロインと別れてしまいます。ただ彼らは大人なので、ヒーローには大義を果たす責任があることも、それは私生活と両立できるような簡単なものではないことも理解しています。よって彼らがプライベートを満喫するにはヒーローの地位を捨てる他ありません。『アベンジャーズ/エンドゲーム』では、ソーとスティーブは人生を謳歌するためヒーローの座を降りることになります。『キャプテンアメリカ/ウィンターソルジャー』で一貫して友人バッキーを救おうとするようなスティーブでさえ全てを叶えることはできなかったわけですね。

一方ピーターはどこにでもいる普通の青年なので、そもそも大義のために活動することに対して葛藤します。『スパイダーマン』では超人的な力を得た後きまぐれで強盗犯を見逃した結果、叔父を間接的に殺害してしまい大いなる力には大いなる責任が伴うことを学びました。この教訓を経てピーターは半ば脅迫的にヒーロー活動を行うことになります。しかし彼はヒーローになっても人並みに青春を送りたいという願望を捨てきれません。その二面性の象徴がスパイダーマンのマスクで、正体を隠すことでヒーロー活動と私生活を何とか両立できていたわけですね。スタークのように正体がバレれば、マスコミに囲まれたり家族や恋人に危険が及び私生活は破綻します。このあたりの葛藤が描かれたのが『スパイダーマン2』でした。劇中で一部の市民に正体が判明しますが、ピーターの心意気に触れて正体を公にはされませんでした。ただこれって現場にいた市民の恩情で結果的に助かっただけで、大義と私生活との両立は危ういものであるという課題は温存されたままとも言えます。スパイダーマンを象徴する「親愛なる隣人」というモチーフも、世界や宇宙を守るような大規模なヒーローではなく、私生活と両立できる範囲内で身の回りの平和を守るヒーロー像というローカルな視点での解釈も可能です。実際、『ホームカミング』でアベンジャーズに勧誘された際もこの考えを持ち出して一度は加入を断っています。

一連の問題が一気に噴出したのが『ノーウェイホーム』です。『ファーフロムホーム』終盤で世界中に正体が明かされ匿名性を失ったピーターは、何をするにもパパラッチに追われることになりヒロインのMJらとともに大学入試で落とされてしまいます。ヒーロー活動と私生活の両立が破綻したピーターは、それでも両方を捨てきれずドクターストレンジを頼ります。ここで魔法が使えるストレンジに助けを求めるのがピーターが子供である所以で、「まず大学に抗議しろよ」とストレンジが突き返すシーンはその通りすぎて笑いそうになりました。このあたりから「子供と大人」という今作のモチーフが表面化してきます。子供の象徴がピーターだとすれば大人の象徴がストレンジで、これ以降もピーターの幼稚な行動を何度も非難しています。ストレンジにとっては世界の平和を守るという大義に従って行動することが最優先であり、そのためならピーターのように私的な感情で行動することは控えるべきであるという思想は一貫しています。彼はアベンジャーズでの一件を経て良くも悪くも現代ヒーロー像に染まってしまっています。全てを叶えることはできないので、世界の平和をヒエラルキーの最高位に定位してあとはできる範囲でやっていくという方針ですね。実際この思想は正しく、NWHの一連の騒動もピーターの身勝手な行動から発生したものであり、彼がストレンジのように聡明な大人であれば起こりえなかった事案です。

一方でこれと対比されるのがピーターの幼稚性です。彼は子供であるがゆえにヒーローをしながら青春を全うできると思っているし、不可能も魔法で可能になると信じているわけです。NWHはそんなピーターが大人に成長していく物語と考えることができます。『エンドゲーム』後のスタークなき世界で彼がアベンジャーズのリーダーになるにはいつまでも子供ではいられません。犠牲を払ってでも自分の失態の後始末はつけなければならないし、理想を全てを叶えることは不可能で時には諦めも必要だと学ばなければなりませんでした。

ではピーターがストレンジのようなある種冷めた大人になればいいかというとそうではありません。今作でピーターが提示した「ヴィランの救済」という視点は、子供であるピーターにしか成しえないものでした。思えば無印の頃からピーターは、ヴィランに対して初手で話し合いを提案していました。『1』のグリーンゴブリンも『FFH』のベックも勝手に自滅しただけでピーターが殺そうとしたわけではないですし、他のヴィランに対してもいきなり殺そうとはしていませんでした。アベンジャーズの面々なら世界平和のためだと普通にボコしに向かうところですがピーターはそれをしません。キャプテンアメリカは『ウィンターソルジャー』においてバッキーに和解を提案していましたが、それはバッキーが親友で根はいい奴だと知っていたからであって、根っからの悪人であるレッドスカルは普通に退治しています。NWHで顕著なように、ピーターの場合はヴィランの素性が分からなくてもまずは平和的な解決を目指します。結果的には事後的にヴィランも根は悪人ではないことが判明するものの、初手に対話を持ってくるのはアベンジャーズの中ではかなり稀です。

ヴィランとの和解可能性」というモチーフは『ブラックパンサー』『ホームカミング』『アントマン&ワスプ』のようにフェーズ3中盤から組み込まれていましたが、これらの和解可能なヴィランは「ヒーローとは違った正義を持っており単純な悪と断罪できないヴィラン」という意味に限定されており、NWHのヴィラン群のように「スパイダーマンに恨みがあるから」のように私的な理由で悪事を働く輩には適用されませんでした。ピーターの画期的な点はヴィランヴィランたるのは病にかかっているからであり、病であるがゆえに治療が可能であると定義した点です。どれだけ私的に街を破壊し人を傷つける奴であれ「ドッグオクはアームに操られているだけなんだ」とか「博士は悪い思想に洗脳されているだけで善人なんだ」のように病ということにしてしまえば、その治療を行いヴィランという立場そのものを無効化してしまえるわけです。この発想はアベンジャーズからは出てこないものであることは明らかです。彼らの最優先事項は大義を果たすことであり、彼らは分別を弁えた大人の集団であるため、大義のために犠牲を払う必要があり理想全てを満たすことは不可能だと学んでいます。相手の思想でヴィランかどうかを判別し、ヴィランと判定された者は退治する以外の選択肢はありません。フェーズ1は単純な正義と悪の対立だったので普通に退治してヒーローの権威を振るっていました。続くフェーズ2では単純な二項対立では終わらない思想の多様性が示され抑止力の調整という政治的な概念が現れました。その後フェーズ3になってヴィランの目的次第では和解の可能性が発生するという観点が出てきました。ピーターはさらにその先を行っており、ヴィランの目的・活動に関わらず和解できるという点でアベンジャーズより射程が広い発想であると言えます。

ただしヴィランの治療というアベンジャーズのさらに先を行くヒーロー活動は当然それ相応の犠牲を伴います。叔母のメイの死を経験してピーターが自省していたように、大義を果たすことで喪失するものもあるのです。ピーターが明確に大人に成長したシーンが終盤のゲートを閉じるシーンで、これまでの流れなら大量のヴィランが出てきてもゲートはそのままに「僕が全員治療して元の世界に返すよ」とでも言いそうなものを、彼はゲートを閉じてヴィランを排斥します。彼にとってこの選択は重大で、その理由はゲートを閉じる行為はピーター・パーカーが世界中の人々の記憶から消えることを意味するからです。元々彼はヒーロー活動と私生活を両立するためにゲートを操作したはずですが、一連の事件で現実を直視し大人になったため、私生活は捨てて大義に生きることを決断したわけですね。最終的にピーターの存在はMJを始めとした全ての人間の記憶から消え彼は孤独なヒーローとして生きていくこととなります。これはヒーローを廃業し自分の人生を生きることを決めたソーやスティーブとは対称的ですね。

最初は大義のためではなく親愛なる隣人としてローカルなヒーロー活動をしていたピーターですが、最終的に大義に生きる決断をして正統なスタークの後継者になったわけです。

補足:マルチバースの概念を用いて平行世界の自身と向き合うというモチーフは、若干テクニカルですがフェーズ3から来たものです。フェーズ1のようにヴィランを悪として断罪した反省を、フェーズ3を通過した今作では実存と向き合ってヴィランとの和解・救済という形で回収しています。ちなみにピーターが欲張ってストレンジを頼ったせいで事件が起こるという流れは、抑止力があるせいで争いが起こるというフェーズ2のモチーフと一致します。

 

ヒーローとして生きることには犠牲が伴うというテーマは、スパイダーマン本編だけでなくMCUシリーズでも一貫して描写されてきました。ヴィランを倒してハッピーエンドという簡単な構造ではなく、ヒーローは活動する上で私生活を犠牲にする必要がありますし、たとえ人を助けたとしても見返りもない上に二次災害で恨まれることもあるという点で彼らは報われない存在です。ピーターはシリーズを通してそういった諦めを学び大人に成長した一方、夢想家の子供にしか持ちえない「ヴィランの救済」という論点を導入しました。この点でNWHは価値の高い作品だと思いますし、フェーズ4以降のシリーズの動向にも注目しています。