どりふてぃんぐそうる

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『ハイキュー!!』の感想 脱根性論と強さの相対化

 漫画版全45巻を読みましたが、今まで食わず嫌いしてたことを後悔するくらいには面白かったです。ゲームでもスポーツでもいいんですが、競技的に何かに取り組んだことがある人にはかなり共感できる作品です。僕も学生時代はそれなりに真面目にポケモンをやっていたので毎巻無限に頷きながら読んでいました。巻数が多いのでトピックが多岐に渡りますが、以下の3つの論点に絞って感想を書いていきます。

 

 

1.才能論

スポーツ作品において努力と才能の二項対立は頻出事項です。昭和の漫画であれば人の2倍3倍努力して天才を打ち負かすといった展開がよくありましたが、昨今の作品では気合や努力といったスポ根要素、少なくとも根性論に頼り切ったご都合展開は意識的に排除されているように感じます。例えばジャンプで同時期に連載されていた『火ノ丸相撲』では相撲に必要な要素を「心・技・体」の三要素に区分けした上でそれぞれのレベリングを行い勝利するというロジカルな手法を取っています。思いや根性のような精神面は勝利を構成する一要素としてのポジションしか占めていません。

また、才能差とどう向き合うかを主題に据えた作品では過去に記事に書いた『アイシールド21』を挙げることができます。個人の能力の構成要素は努力か才能かの二択ではなく、天才は凡人と同じかそれ以上に努力しており、人種や身体的特徴といった先天的な才能差は努力では覆せないことが描かれています。

つまり凡人では気合でも努力の量でも天才に敵わないわけです。努力と才能は二項対立ですらなくて、才能ある者は努力もしているので凡人では差を埋められないという夢のない話です。競技的に何かをやっていればすぐ分かることですが、気合で急に強くはならないし上手い奴は裏でちゃんと努力しています。『ハイキュー!!』においてもこの辺りの描写は徹底していて、強い奴で練習をサボっている奴は誰一人いません。しかし才能差に絶望して諦めるのではなく、挑戦を続ける姿勢こそが重要だという結論は『アイシールド21』と共通しています。

自分の力の上限をもう悟ったって言うのか?技も身体も精神も何ひとつ出来上がっていないのに?

自分より優れた何かを持っている人間は生まれた時点で自分とは違い、それを覆す事などどんな努力・工夫・仲間をもってしても不可能だと嘆くのは、全ての正しい努力を尽くしてからで遅くない

ただ「自分の力はこんなものではない」と信じて只管まっすぐに道を進んで行くことは「自分は天才とは違うから」と嘆き諦めることより、辛く苦しい道であるかもしれないけれど

第372話(42巻)

 

僕がこの台詞が好きな理由は最後の一文にあります。「頑張れば絶対勝てる、死ぬ気で努力しろ」と言うのは簡単ですが、それを実行するのは大きな苦痛を伴います。ましてそれをしたからといって頂点に立てる保障はどこにもないわけで、体力や時間といったかけがえないリソースを無駄にする可能性の方がずっと高い。そういった努力の負の側面にちゃんと言及するのが偉いと思うし、だからこそ挑戦を選択することに美学が生まれるのです。

 

 

2.競技目線

 

勝負事で本当に楽しむ為には強さが要る

第70話(8巻)

 

これは『ハイキュー!!』で最も有名なセリフの一つです。フィジカルスポーツなら運動音痴で思い通りのプレイができないと楽しめませんし、運動能力が関係ないカードゲームにおいてもマイオナしてたら環境デッキに蹂躙されてやりたい動きができずにつまらないなんてことはよくあります。そもそも下手だと上位層で行われている高度な駆け引きの存在に気付くことすらできません。達人は初心者の輪にも入れますがその逆はあり得ず、競技の世界では大は小を兼ねていると実感します。

僕が作中で好きな展開で烏野が音駒グループの練習に混ぜてもらうシーンがあります。この時点で没落していた烏野は頼み込んで強豪校グループの合同練習に入れてもらうのですが、あまりにリアルで無限に共感してました。僕は学生時代はそれなりに一生懸命ポケモンに取り組んでいたのですが、強いやつは強い奴と組んで質の高い練習をしていました。同じ時間努力するとしても上位層と下位層ではその質が明らかに違うんですよね。外部の人間がその輪に入るためには基本同じくらい強くなってコミュニティの質に見合う実力をつける必要がありますが、このシステムではほぼ不可能に近いです。シャドバでも全く同じ構造があったので少なくとも対戦ゲームにおいては同じ傾向があると言っていいでしょう。要するにゲーム内部でも外部でも、強さを手に入れないと知ることができない楽しさがあります。

それから、この手の漫画には珍しくメタの変遷があるのもポイントです。主人公コンビの変人速攻も中盤以降の強豪にはすぐに見切られて対策を立てられます。

 

高いブロックを抜くための変人速攻→対策してブロックせず後ろ側で待機→変人速攻を囮に別のスパイカーで得点→スパイカーにマークをつけさせる→マークが空いた所に再度変人速攻

 

これは一例に過ぎず、作中では多様なメタ変遷が描かれています。こういうメタの駆け引きも一定以上の実力がないと楽しめません。ガチの初心者はメタという概念を知らないし、知っていてもメタ以前にボコられて終わりです。カジュアルにプレイすることは否定しないけれど、ガチ勢にはガチ勢にしか知り得ない面白さがあることを提示した名言だと思います。

 

 

3.理性とリアリティと相対化

序盤に少し書きましたが、『ハイキュー!!』はかなり意識的に根性論を排しています。勝利は気合・根性といった抽象的な尺度ではなく、理性によって組み立てられています。僕がそれを最も感じるのは本作における声援の描写です。大声を出して熱くなることは直接的な強さには繋がりませんが、連携の強化とチームの鼓舞という二つの役目を果たしています。前者はチームスポーツの経験者なら分かりやすくて、声を掛け合うことで所謂お見合いを防ぐことができます。作中では「ワンチ(ワンタッチ)」や「オーライ(自分が取るの意)」は頻出していた記憶があります。後者は作中で終始描写されてきた「流れ」と深い関係があります。バレーボールはサーブレシーブの相性関係上交互に点が入るのが基本で、シーソーゲームになりがちだそうです。だからこそ連続で点を取った/取られた場合など、(少なくとも作中においては)「流れ」が重視されます。ゆえに声出しは最重要視されますし、稲荷崎戦においては声出しの緩急で相手のサーブテンポを乱す戦術も使われました。ただ闇雲に声を出すのではなく、精神論で片付けられがちな行為にしっかりした理由付けが行われている点は個人的に感心しました(ちなみに作中では声出しの意味付けまで説明している描写もあります)。

 

さて、精神論を排してこういったロジカルな戦術描写やリアルな競技志向をすることは主人公チームの相対化に結び付きます。スポーツにおいて善悪はないし、負けたところで世界は滅びません。主人公チームが勝つ必然性はどこにもない、すなわち主人公補正の排除です。『ハイキュー!!』ってスポーツ漫画によくある「こいつ・・・試合中に成長している!?」的な描写が少ないとは思いませんか?試合中に新たな試みをしても失敗したり、成功してもゲームを決める決定打にはなり得ない。日々の地道な鍛錬のみがステータスを形作っています。主人公といえどどこにでもいる高校生の一人に過ぎず、オンリーワンだったりナンバーワンだったりはしません。自分と同系統の能力や上位互換は当然のように存在するし、気合だけで勝てはしないし、負けられない戦いも熱を出して敗退します。彼らは絶対化された主人公ではなく相対化された一個人に過ぎないことは一貫して描かれています。

 

お前に気合や気持ちが足りなかったとかそういう事じゃない

心(メンタル)と身体(フィジカル)は別個のものじゃなく強い身体に強い心がついてくる

限界を超えるんじゃなく限界値を上げてこう

第369話(42巻)

 

スポーツ漫画の根性論は主人公補正とある程度関係があって、勝利への思いや気合で勝てるのであれば同じように努力している敵チームも同じであるはずです。誰にだってドラマを持っているはずで、思いの強さで主人公が勝ったのであればそれは主人公の絶対性がある程度のウエイトを占めていただけとも言えます。

引用は最後の一文によって、本作がアナクロな根性論と明確に距離を取っていることが分かります。

 

この相対化はバレーボールそのものにも適用されます。登場人物の殆どは大人になる過程でバレーボールから一定の距離を置き普通の社会人になります。バレーボールは高校時代を賭すくらいには大切な要素ではあるけれど、絶対的な一位ではなく、せいぜいパーソナリティの一要素くらいの位置づけです。バレーボール漫画において「バレーボールを追求することだけが幸福の形でない」とはっきり言いきれてしまうところがこの漫画のすごいところだと思います。だからこそ、相対化された存在でしかないバレーボールを生涯を賭けて追い求める人たちもまた素晴らしいと言えます。

バレー以外にも生きる道はたくさんあるし、それを続けることは大きな困難を伴うけれど、それでも日々地道に鍛錬を続けること。自分はどこにでもいる一般人に過ぎないと自覚してでもその道を進むこと。仮に頂点に立ってもその地位を維持するために終わりなき努力を続けること。競技プレーヤーとして生きることは永遠の挑戦者として生きることであり、いずれも強い信念と覚悟が必要ですが、そこにこそ享楽と美しさがあるのです。