どりふてぃんぐそうる

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マイホーム検討から一か月経過した現状

ぼっちちゃん富豪説


お久しぶりです、ぺーやんです。ここ最近は仕事と家探しが忙しくTwitter(意地でもXとは呼ばない)に浮上せず潜伏していました。TLは見ていましたしちょこちょこゲームしたりアニメも見ていたのですが、オタク強度の弱体化を感じる今日この頃です。

今日はオタク記事というより完全に個人的な人生の話をします。いよいよ自分語りしかトークネタがなくなったおじさん感が増してきましたが、同年代のフォロワーが多いので同じような悩みを抱えている人もいるのではないかと思い書いています。この手の話はTwitterでするのも憚られるしそれなりの文量になるので個人のテリトリーであるブログ上で発信するのが望ましいです。

私は昨年3月に入籍しこの一年で新婚旅行と結婚式を済ませ、そろそろマイホームを考えるかというステージに差し掛かってきました。まずマイホームが欲しい理由についてですが、将来的に子供を儲ける予定だから、これ一択です。現在私は妻と二人暮らしで駅近の1LDK賃貸マンションに住んでいるのですが、部屋の広さ的に子供ができたら引っ越しすることになるので、このタイミングでマイホームを構えるのが適切だと判断。

しかしマイホームを購入するにあたり何をすればいいかが全く分からない!このような場合取れる選択肢はいくつかあります。

①住宅展示場に行く

②スーモカウンターに行く

③友人・家族に相談

④ネットで調べる

それぞれ善し悪しがあるのでこれらを並行して活用するのが望ましいですが、自分は近所にあったからという理由で②を選択。スーモカウンターは戸建てを検討する人向けにハウスメーカーの仲介・斡旋を行っています。事前予約したとはいえ軽い気持ちで入ったら2時間くらい熱弁されました。担当が割と当たり寄りの人で話しやすく、今後のビジョンが固まったという意味では利用してよかったと思います。ちなみに紹介されたハウスメーカーの営業と合わなかった場合、スーモカウンター側で断りの連絡をしてくれます。家作り版モームリ。

 

 

初手:前提条件を整理しよう

家作りに限りませんが、初動においては現状分析から正しい目標設定を行うことが大切です。例として僕の場合で考えてみましょう。

★現状★

居住地:福岡県

世帯構成:ぺーやん&妻(将来的に子供1~2人追加予定)

世帯年収:ぺーやん500万円+妻500万円=1,000万円(ともにフルタイム正規雇用)

通勤方法:ぺーやん電車通勤、妻車通勤

実家:夫婦ともに福岡県内、関係性良好

 

★希望(当初)★

ぺーやん:豪邸に住みたい/駅近など通勤しやすいところが良い

妻:収納が多く欲しい/子育てしやすい立地/通勤のしやすいところ/旅行にも行きたい

 

はい、希望がバラバラですね。これはよくないです。前提条件としてコストとパフォーマンスはトレードオフで、我々が庶民であり予算に上限がある以上、全ての要望を叶えるのは不可能です。なので豪邸に住みたいのに旅行に行くほどの金銭的余裕を持ったり土地代が高い駅近に住むのは難しいという話です。いい土地に住みたいなら面積が狭くなったり家がコンパクトになるのを受け入れる、家を大きくしたいなら郊外に住むなど、何かしらの妥協が必要となるわけですね。そもそも費用的に、アクセルが良い土地を庶民が買うのはかなり難しく、そんな土地には大抵マンションが建っています。なので僕らの最初の検討事項はどのような形態の家にするか、です。

 

マンション戸建て論争、賃貸持ち家論争

条件を整理するにあたり、そもそも家を買うべきなのか?という話をしなければなりません。巷では賃貸派VS持ち家派、マンションVS戸建て派が日々激論を繰り広げていますよね。これらに絶対的な正解はないので最終的には自分に合った形態にしましょうという話に帰着するのですが、改めてメリットデメリットを書き出してみます。

①賃貸

メリット:住み替えが容易

デメリット:生涯家賃負担がある、資産にならない、家賃上昇リスク

賃貸の特徴は「住み替えが容易」これに尽きます。近隣住民とトラブルになった、家賃負担がきつくなった、ライフステージの変化で居住に必要な面積が変わった・・・賃貸ならいつでも別の物件に住み替え可能です。住宅ローンも組む必要がなく、借金を背負わずいつでも好きな場所に引っ越せるフットワークの軽さが最大の長所です。それに加え、賃貸の場合職場から家賃補助が出る場合も多く、金銭的な安心感で言えば賃貸に軍配が上がりそうです。

 

②持ち家

メリット:広い敷地面積、自由な間取り、資産価値

デメリット:住宅ローンのリスク、実質的に転居不可

持ち家は賃貸の逆で、自分の土地建物という自由を得る代わりに住宅ローンという名の枷を背負うことになり、それにより実質転居が不可能となり、隣人ガチャが発生するなどフットワークが重くなります。

ここで持ち家を購入しようとなっても次に浮上するのがマンション戸建て論争です。

 

③マンション

メリット:アクセスがいい/立地が良ければ将来的に売却益を得ることが可能

デメリット:戸建てに比べ狭い/それに伴い収納が狭い/管理費・修繕費の積み立てが青天井/機械式駐車場の場合車の出し入れに時間がかかる

マンションの強みはアクセスの良さと資産価値でしょうか。基本的に駅に近く立地がいいので資産価値が高い。いざという時に売れるのでフットワーク問題を緩和できています。ただしマンションは戸建てと比較すると居住面積が狭いので、広い家に住みたい人には向きません。金銭面では毎月住宅費と別に管理費や修繕費の積み立てがあり、この額は時世によって変動するため、想定外の負担を強いられる可能性もあり得ます。イメージ的には戸建てと賃貸の間くらい。

 

④戸建て

メリット:広い敷地面積、自由な間取り、資産価値

デメリット:住宅ローンのリスク、実質的に転居不可

②とほぼ同じです。

 

この後に新築中古論争が続きますが割愛。

自分の場合、将来の子育てを考えたら広さが取れる戸建てを購入したいと考えていますが、通勤の便利さも捨てがたいし狭い家にも住みたくないという妥協できないカスに成り果てています。

 

現代の家、高すぎ!?

よし家を買うかとなっても、現代の家は死ぬほど高いです。親世代と比較すると同じ広さの家を建てようと思うと建物の値段が倍します。令和8年現在、建築資材高騰・金利上昇・土地代高騰と地獄のトリプルパンチで夢のマイホームはガチの夢と化しつつあります。大手ハウスメーカーで注文住宅を建てると建物だけで3,000~4,000万円します。ここに土地代や諸経費が加わると・・・。考えるだけで恐ろしいですね。

一般的に世帯年収の5~7倍で住宅ローンは組むべきと言われています。ぺーやん家で考えると5,000~7,000万円です。この額のローンを背負うの、怖くないですか?さすがにこの額のローンは毎月の支払いがエグいということで従来の35年ローンを超えた40~50年ローンを組むのが標準となっています。仮に7,000万を50年で払うとして、金利を考えると総支払額約9,000万円、毎月の支払額約15万円になります(ボーナス返済なし)。今31歳なので、定年後も80歳まで毎月15万円を支払う生活・・・想像できね~。

もちろんボーナスで繰り上げ返済するだとかそもそももっと安価な家にしろよとか色々ありますが、肌感的に現代の住宅事情はこんな感じです。昨今のトレンドはなるべく長期で住宅ローンを借りて、抑えた住宅費で捻出した資金を投資に回して金利・物価上昇分をペイするというスタイルがトレンドみたいです。団信もつけて老後の支払い中に死ねばローンチャラでラッキーみたいなとこもあります。

 

どこのメーカーでどう建てる?

仮に戸建てを建てようと思った場合、どういう業種でどう建てるかも重要です。一口にハウスメーカーといっても①地元の工務店、②中堅ハウスメーカー、③大手ハウスメーカーと3タイプが存在します。

ざっくり言うと①は地域密着型の中小企業で価格抑えめ。〇〇組とか〇〇工務店とか書いてあるとこです。③は積水ハウスとか一条工務店、ミサワホームみたいなCMしてるでかい企業です。価格は高いですが大企業なのでブランド力があり経営が安定しています。②はその中間位。

どう建てるかというのは①注文住宅、②規格住宅、③建売ということです。

①はフルオーダーでゼロから間取りを設計でき、注文者のニーズに合致した家作りができる分高価格、②はセミオーダーなのである程度間取りが決まっていますがそこそこ変更可能で①と比較すると安価、③はすでに完成した戸建てを購入するので当然間取り変更はできませんがさらに安価な傾向にある、という特徴があります。

そりゃ資金があれば大抵の人は大手でスペックマシマシのフルオーダー住宅を建てると思いますが、各世帯で予算の制約があるのでどこをどう妥協するかということですね。

あとはハウスメーカーごとに耐震性・気密性・遮音性・冷暖房機能・その他オプションなどが異なりますが、大手ハウスメーカーは大体似たり寄ったりの価格帯です。ハウスメーカー比較はYouTubeを探せばたくさん動画が転がっているので、気になる方は漁ってみてください。僕は現時点では保障やアフターサービスが充実していて災害にも強い大手ハウスメーカーを中心に検討していますが、今後変わるかもしれません。高いし・・・。

 

で、結局土地どうするよ

昨今の住宅事情を見たところで、僕個人の話に戻ります。ハウスメーカー営業と色々話してこの辺の事情を理解したところで、まず要望を全て叶えるのは不可能であることが分かりました。通勤しやすいアクセスのいい土地を買うなら家はコンパクトになるし建物にあまりお金をかけられない、上物を立派にしたいなら立地は諦めることになります。さらに難しいのが僕と妻の勤務地がまるで逆方向にある点です。田舎でも双方の勤務地が近ければ勤務地近くの郊外の安い土地を買えばいいのですが、このケースだとどちらかの勤務地に寄って片方は通勤時間が伸びるのを許容するか、中間地点に土地を買うかになります。ちなみに夫婦ともに転職予定はないです。というか最近の福岡県の土地はガチで高い。普通に2,500~3,000万します。そこにそれなりの建物を建てるとあっという間に7,000万円付近にレンジが伸びます。これって昭和世代からすると考えられない高額な資金計画です。まあ当時は当時で現代基準だと異常に金利が高かったとかはありますが・・・。

さすがに7,000万はちょっと・・・と考え郊外の土地を探すとそれはそれで通勤育児問題が出てきます。現代は共働きで子育てするのがスタンダードですが、いつの時代も幼児はすぐ体調を崩します。保育園からの頻繁な呼び出しに夫婦がどう対応するか、これは事前に決めておいた方がいいです。そうなると我が家だと妻の職場の方が育児への理解があるので、土地は妻の勤務地に寄るのがベターな気がします。そうはいっても僕の通勤に何時間もかけたくないという本音があります。特にバス+電車+バスとか複数の公共交通機関を駆使して通勤する場合、残業したときなんか帰宅困難になる可能性があります。こういうことを書くとおそらく世のママさんなら「旦那の通勤事情より子育てのしやすさが大事だろ」と喝を入れることでしょう。その気持ちも分かる。分かるし僕に分が悪い主張なのは理解しています。都市圏のパパはこういう事情を受け入れて満員電車を片道2時間とかかけて通勤しているのだと思うと頭が上がりません。というか都市圏の子育て世帯って実家が田舎にあって援助も望めないから、どうやって日々生活を成り立たせているのか疑問すぎる。現代人のバイタリティを高く見積もり過ぎている。共働き、どう考えても継続不可能な生活モデルじゃないか?と思っている今日この頃です。

そんなこんなで家作りを検討して早一か月、土地問題で詰まっています。はたしてぺやハウスは建つのか!?随時アドバイスや経験談募集中です。

ちなみに妹夫婦と義弟夫婦は最近7,000万円の新築を建てました。「まあ支払いはなんとかなるっしょ!」が口癖です。

とりあえず分かったことは、アニメキャラが住んでいるような一戸建てに住むのは現代人だと相当ハードルが高く、彼女らはブルジョワ階級だということです。

2026年1~3月履修コンテンツ ぽこポケ/超かぐや姫!/資格勉強

見るアニメはジャンプ系のみ、ゲームもほどほどに余暇は資格勉強に費やすオタクの成れの果てみたいな人間になってしまい寂しさを感じる今日この頃。そのせいで履修コンテンツに書く内容が枯渇してきている。来年からはオタクに戻るので・・・。

 

アニメ

ジョジョの奇妙な冒険SBR(1話)

呪術廻戦 死滅回遊前編

 

漫画

二月の勝者

 

映画

超かぐや姫!

 

ゲーム

ぽこあポケモン

 

書籍

改訂版 日本統計学会公式認定 統計検定2級対応 統計学基礎

日本統計学会公式認定 統計検定2級 公式問題集

くわしく学ぶ世界遺産300

世界遺産検定公式過去問題集1級・準1・2級

みんなが欲しかった!FPの教科書3級
みんなが欲しかった!FPの問題集3級

みんなが欲しかった!FPの教科書2級

みんなが欲しかった!FPの問題集2級

 

ピックアップ

 

ぽこあポケモン

この手のゲームはクリア後の自由なクラフトが本番だが、思いの外本編ストーリー部分がよくて、ラストは普通に感動した。人間がいなくなり荒廃した世界をポケモンたちが復興する物語だが、火を吐く、草を生やすといったポケモンの持つ固有スキルが作劇上の必要性とマッチして気持ちいい。この手の物語構造はまんま『Dr.STONE』のやり口で、課題発生→解決に必要なスキルを持つポケモンを招集→課題解決→次の課題発生という一連のプロセスは、そのキャラクターの必要性を主張できるのでご都合感がなく、かつスムーズに物語が進行していくので時代観にもマッチしている。おまけに課題ごとにポケモンの魅力や見せ場もセットで提供されるのでキャラクタービジネス的にも魅力的な一本になっている。ストーリーを進めるといつの間にか大量のポケモンが仲間になっていて、みんなで協力して世界を復興させたという少年漫画的達成感も味わえる。ポケモンの新たな可能性を発見させた革新的な作品として高く評価したい。

ちなみに肝心のストーリー後のクラフトだが、自由度の高さと作業量の多さにすぐにギブアップしてしまった。昔はこの手の自由さがウリのゲームは無限にやり込めていたのに、「この時間あれば他の事できるな」とか「俺の理想の街を作るまでは果てしなくて疲れる」とか単純に想像力がなくなってきて何を作ればいいか分からないとか、どんどん加齢の影響が出てきて悲しい。こうして虚無のオタクにまた一歩近づいていくのか・・・。

 

超かぐや姫!

初見の時は「まあまあ面白かったな」くらいだったがTLに流れてくる二次創作イラストでジワジワハマりだして今では毎日ろかいろについて思いを馳せるオタクになっている。超かぐや姫でネトフリを見直したがジョジョSBRのありえない延期で再び評価が地に墜ちた。やはりアニメの独占配信は悪。毎週地上波で放送してオタクと感想を共有させろ。以下初見時の感想。

これまでは独占配信のせいでネトフリに良い印象を抱けなかったが、そんな不満を消し飛ばすくらいの会心の仕上がりでかなり面白かった! 本作はタイトル通り、かぐや姫を現代風にアレンジする分かりやすい試みで制作されている。この「分かりやすさ」は作品全体を通して一貫していて、誰もが知る題材かつ複雑な設定を廃していることや、VtuberやMOBA風ゲームなどの視聴者層に馴染み深い設定を持ち出すこと、全体的にスピーディーな展開でありながら子育てシーンなどのストレスシーンを省略するなど、とにかく視聴者に負荷をかけない作りを心掛けているように感じる。さらには全体的に作画が良く、かつ常にキャラクターが動き続ける上にライブシーンが豊富とドーパミン中毒のキッズを飽きさせない配慮も忘れない。「わたなれ」もそうだが、令和のドパガキを相手にする商売は賑やかで分かりやすく作ってヒットさせるという戦略がセオリーとなってきているのを感じる。 さて映画の中身についてだが、かぐや姫をハッピーエンドにするというコンセプトが明快で序盤を見ただけである程度オチが透けて見えるが、起承転結がしっかりしていて飽きずに楽しめる。TLに流れてきた感想の引用になるが、本作は細田守作品というよりはラブライブのノリで、葛藤や挫折を深堀りするのではなくハイスピードで展開を進めていい話風にまとめるスタイルだ。細かい部分の粗探しをするより加点方式で評価したほうが伸びるタイプの作品なので、合う合わないは明確にあるだろう。ただ令和という時代性と視聴者層にフィットしたコンセプトなのでそれ自体はいいと思う。 ストーリー的にはドラえもんに近いと思った。結末とか同人版のifルートまんまだし。これハッピーエンドか?という引っ掛かりは残るもののそこまで気にするほど悪いわけでもない。テーマとしては最近ありがちな自己実現系統で、才色兼備なのに普通に生きようとする彩葉と最初は何も出来ないがポジティブで欲深いかぐやが対になっている。仮想世界というモチーフもそれを引き立たせるものだ。リアルと違いやりたいことが全てできる仮想空間は、各々が個性を発揮する場としての役割がある。できるできないではなく自分の可能性を信じて個性を出していくことが肝要だとする価値観はまさにラブライブと同根のものだ。持ち前のポジティブさで配信や歌、ダンス、さらには料理と駆け足で成り上がっていくかぐやはそうしたスタイルを体現している。そしてかぐやの存在は没個性でいいとしていた彩葉の価値観を変え成長を促す。かぐやをキーにして親子の不和や進路といった問題を解決した彩葉が最終的にかぐや再び見つけ出すという救い返しの構図はやはりドラえもんチックだ。どこを取っても既視感がある作りだが、王道は面白いから王道なのであって、そうしたウケるフォーマットをネトフリマネーでブラッシュアップして視聴者が望む通り提供するプロセスは圧巻だ。エンタメ作品として極上でいい映像体験だった!

 

改訂版 日本統計学会公式認定 統計検定2級対応 統計学基礎

大学は経済学部だったので統計の授業は受けたはずだが、完全に記憶喪失になっており苦労した。公式テキストなので基礎知識は一通り網羅しているのだが、如何せん分かりづらい!これと問題集だけで根源的な理解ができる人がどれだけいるか分からない。合格点を取るだけならこれを読んで公式を暗記すればクリアできそうだが、テキストの水準という意味ではお世辞にも高いとは言えない。ただそれは統計学という学問の難解さのせいでもあるので一概にテキストのせいにもできないのが難しい(他のテキストも同じくらい意味が分からない)。というわけで俺はYouTubeの解説動画を副教材にして何とか合格した。ちなみに資格は取ったがギリギリだったので全然統計学に詳しくなった気がしない。自己満足。

 

くわしく学ぶ世界遺産300 世界遺産検定2級公式テキスト

世界遺産検定は理解もクソもない純粋な暗記科目で、公式テキストを徹底的に反復し頭に叩き込めばいい。ご丁寧に出題個所を赤字や太字で強調してくれているので、日本以外の遺産については基本的にはそこだけ覚えればいい。このテキストは読み物としても面白いので受験する気がなくても買ってもいい。基本的には同種のカテゴリー(十字軍関係とか建築様式が優れている遺産とか)に属する遺産を固めて掲載するスタイルで、冒頭には資料として国ごとにどこにどんな遺産があるのかの分布図が載っている。300ページ弱で300の遺産を掲載している都合上、ひとつの遺産についての知識は浅い。そのため世界遺産検定を持っているからと言って「ヴェネツィアについて詳しく教えてよ」という類の垂直に深堀りしてくる質問には答えられない。ただ「スペインの世界遺産って何があるの?」とか「仏教関連の遺産を教えて」のような水平方向の質問になら答えられるようになる。それがメリットかどうかは微妙なところだが、趣味系にしてはメジャーな資格だし普通に教養にもなるので読んでおいて損はない一冊。

 

みんなが欲しかった!FPの教科書2級

俺も気付けば30代になり、家を買ったり資産運用したり保険に加入するライフステージに差し掛かってきたためFPの取得を決意。FPは年金や社保などの社会制度・生命保険・資産運用・税金・不動産・相続の6分野に分かれており、社労士や宅建士、税理士等の専門分野を広く浅く学ぶ資格で、学問としては全く面白くないが実用性は抜群なので持っておいて損はない。取り敢えず2級まで持っておけば履歴書にも書けると思う。有名な資格で持っている人も多いので舐めていたが存外難しく、1か月~2か月くらいは真面目に勉強する必要がある。勉強方法は王道で、まず過去問を解いて全体像を把握し、その後はテキスト→問題集をひたすら繰り返すだけ。テキストは何でもいいが一番売れていると評判のものを買った。平易な言葉で分かりやすくまとまっていて特に不満なく使えている。特にテキストと別売りの問題集が完全にリンクしていてセクションごとにテキストと問題集を反復できるのは本書の魅力だ。著者は宅建やら簿記やらも同じスタイルで参考書を出版しているため、今後それらを学ぶ機会があればこの著者ものを買うと思う。勉強のテキストは逆張りせずとりあえず王道で最もスタンダードなものを選ぶのが丸い。

30歳になって色々変わってきた

2025年もあと数時間で終わる。今年は入籍・新婚旅行・結婚式とライフステージ上の重要イベントが重なり慌ただしい1年だったと同時に、20代が終わり30代へと足を踏み入れた年でもある。アラサーだったここ数年は、自分の考え方や人生観といった価値観の転換点と言えるシーズンだった。タイトル的にこの一年で価値観が一変したようにも捉えられるが、実際はここ数年で少しずつ変化してきたものだ。Twitterで自分語りをするのも気が引けるので今まであまりしてこなかったが、いい機会なので2025年の振り返りと称してこの場で20代の自分語りをすることにしたい。

 

 

異常オタクの誕生

まず、客観的に見て俺はオタクの部類に入ると思う。アニメや漫画、ゲームといったサブカルコンテンツは好きだし、聞いている音楽もアニソンやボカロ系統で、暇さえあればTwitterまとめサイトを見ているので大抵のネットミームも理解している。逆にドラマは見ないので芸能人や有名ユーチューバーはほぼ分からない。中学生になるころにはオタク趣味に目覚めていてそのまま成長したので大学入学時には見た目も中身も立派なオタクであった。大学ではポケモンサークルに所属しバイトもせず日夜ランクマッチに明け暮れ、週末にはオフ大会に出場していた。

俺はオタクだったのでとにかく働きたくなかった。できることなら毎日限界までゲームしたりアニメを見たいと思っていたので就活の軸は収入より余暇時間だった。なるべく定時で帰れそうな業種を探したつもりだったが、今思えば当時の俺はゲームのことばかり考えていたので就活の事前リサーチは全然足りていなかった。結局親に頭を下げて1年就職浪人した。

とりあえず就職したはいいものの、バイト経験のない俺は社会常識が皆無だった。まず挨拶をしないし上司をあえて役職名ではなく名前で呼ぶ。先輩の言うことは聞かないしコンプラ的にグレーなことも色々やった。これは半分故意で半分自爆だった。当時の俺は、職場は戦場でそこにいる人間は敵だと思っていた。仕事は給与のために仕方なくやっていることで、それは俺の余暇時間を奪う悪であり1秒で早く帰りたいという思考だったし、職場は世間という単位で見れば狭いコミュニティなのでそこにいる人間に嫌われようがダメージは小さいし、むしろ一匹狼気取っている方が余計な仕事を押し付けられず快適だと考えていた。そんなだから当然職場ではよく思われないし、ついでに仕事も出来なかった。だが日本企業はよほどのことがない限りクビにならないことを利用し、俺はどれだけ仕事が残ってても定時になると涼しい顔で帰っていた。ここまで羅列していて完全な社会不適合者だが、むしろその異端さこそが社会に反抗している感じがしてカッコいいと思っていた。Twitterにはそんなやついっぱいいたし。我ながらいい年こいて厨二病みたいな奴だな・・・。1年目は直属の上司に物理的に軟禁されて残業させられたクリスマス以外は毎日定時で帰ってゲームしていた。この頃は毎日のようにdiscordで通話していた気がする。

 

転機

4年目くらいになると少しずつ風向きが変わっていった。まず人並みに社会常識を身につけたし仕事に慣れてある程度捌けるようになってきていた。そうすると職場での居心地がよくなり始めて飲み会の席にも顔を出すようになる。職場の人間も話してみると案外良い人だということが分かってきた。彼らはオタクではないものの、だからといってオタクを排斥しようとはしない。オタクが避けられるのはTPOを弁えず一方的に自分のしたい話をするからであって、まともに会話のキャッチボールができれば臆することはない。例に漏れず俺も隙あらば自分の好きな話をする傾向にあったが、働き始めて矯正に努めかなり改善されてきたので普通に会話できるようになっていた。その手の自覚がある人は相手の話が一段落するまで自分の脳内に浮かんだ言葉を一旦飲み込んで、自分が言いたいことではなくその場に適した言葉を発する練習をしてください。ちなみに過去の俺はどんな場でも一生ポケモンコマスター(ポケモン版将棋みたいなサ終したソシャゲ)の話をしていたらしい。この頃には与えられた仕事をきちんとこなして定時で帰れるようになっていた。

職場の人と仲良くなると仕事にもいい面が出始める。分からないことを聞くと快く教えてくれるし、自分がキャパオーバーしそうなときは手伝ってくれた。その逆パターンもあるにはあるが、差し引きプラスで職場の居心地がよくなっていった。なるべく仕事を弾いて最速で帰るほうがいいという俺の価値観は、それなりに職場での人間関係を構築して相互扶助したほうがいいという考えに変わっていった。これは俺という人間の軸が根底から変わったわけではないことを付記しておく。俺の、というか大抵の人はそうだと思うが、自分の人生の利得を最大化するように生きていると思う。俺が孤独を気取って仕事を弾いていたのもそうしたほうが自分が仕事をせず最速で帰ってゲームをする時間を延ばせると思ったからで、それは後者の考え方でも変わっていない。職場での居心地をよくしておいたほうが、周囲に助けてもらえてトータル仕事を楽に終わらせて早く帰れると理解しただけだ。俺はずっと対戦ゲームに身を投じてきたせいで、この辺りの利己的な思考を人より意識的に行うようになっただけに過ぎない。仮に多少帰る時間が遅れたとしても、1日の大半を過ごす職場環境を良くする方が精神的な利得まで考慮するとメリットがあるだろう。もちろんこれは職場の人間の質によるところも大きい。ギバー気質の人間ばかりであれば奉仕することは自分にとってデメリットになる。そう考えると、俺の幸運は初手でそれなりに良識のある人で構成された職場に置かれたことかもしれない。

 

わたしの身体、弱すぎ!?

職場環境が向上していく一方で、アラサーにさしかかり明らかに身体の衰えを感じ始めた。アラサーといっても20代なのでさすがに老化というほどではないが、気になるポイントは年々増えていった。焼肉やラーメンといった脂っこいものを食べると翌日腹を壊すようになったとか、ランニングすると膝を痛めるようになったとか、肺活量が下がったとか、肩や首がこるとか、眠りが浅くなり早朝に目覚めるようになったとか枚挙にいとまがない。さすがにヤバいと思い意識的に運動するようにした。毎週ジムには行くし(本当は頻度を上げた方がいい)移動はなるべく徒歩で、週末は職場の同僚と登山やアウトドアをしたりと最低限の抵抗はしている。また俺の場合症状が内蔵系に寄っているのは明らかに食生活のせいなので、去年くらいから自炊するようにした。それまでの俺は一人暮らしだったので食事はスーパーの冷凍食品、野菜を取りたいときはリンガーハットかほっともっとの野菜炒め弁当を食べていた。野菜は買ったことすらなく朝食で食べていたバナナを万能薬だと崇めていた。そんな有様だったので妻と同棲し始めたときにそれはもうドン引きされた。野菜の買い方から料理の仕方、その他家事のやり方まで叩き込まれ、とりあえず最低限の家事スキルは身につけられた。世帯人数が増えるほど節約になる自炊の性質上、一人暮らしや二人暮らしで比較すると外食と金銭面で大差ないものの(昨今はチェーン店の値段も上がっているので自炊のほうが明確に節約になるかも)、野菜を摂取できるのは自炊のメリットだ。野菜の値段も高騰しているものの安いものはいくらでもあるし、適当に切って味噌汁にぶち込めば手間も最小限で済む。今時ネットで検索すればレシピはいくらでも出てくるし、面倒ならCookDoみたいな時短料理も売っている。自炊するようになってある程度は不調も改善されたように思う。それに伴い生活習慣も一新した。どうせ早く目覚めるならと朝方の生活サイクルに切り替え、5時過ぎには起きてソシャゲのデイリーをこなし出勤、帰宅後すぐ入浴し食事を済ませ、23時には就寝するようにした。本当はもっと睡眠時間を確保したいがゲームもしたいので悩ましいところだ。ここ数年でどんどん真人間になっていくのを感じる。

 

脱オタク問題浮上

昨今定期的にTwitter(意地でもXと呼ばない)で浮上する話題の一つに「オタク35歳限界説」がある。これは「独身オタクは40代で狂う」と同系統の話で、オタク趣味は一定の年齢で飽きてオタクではない何かになってしまうという意味だ。大抵のオタクはまさか自分がそうなるはずはないと思っているだろうし、実際俺もそう思っていた。大学生でラブライブにドハマりしていた時やポケモンのレートにのめり込んでいた時はこの熱は永遠だと思っていたし、仮にそのコンテンツに飽きても別のコンテンツに同じようにハマるだろうと。だから就活でなるべく余暇を持てるような業種を探したし、就職してからもそそくさと帰っていたのだ。実際、就職して何年かは同じ状況だった。μ'sは終わったが別のアニメにハマったし流行りのアニメは大体見ていた。ポケモンは引退したが同じようにシャドバや他の対戦ゲームをやっていた。だが少し前からオタクコンテンツへの向き合い方が以前と変わりつつあるのを体感し始めた。推し活が市民権を得だしたのと対照的に俺はそうではなくなっていったし、ランクマへの熱量も減るようになっていった。俺はそうならないと思っていたのでこれはかなり意外だった。今思えば父親もゲーマーだったらしいが俺が物心つく頃には全然やらなくなっていた(でも俺と対戦するときは親なのに大人げなく勝ちまくっていた)し遺伝かもしれない。だが最も大きな理由として考えられるのが自分が人生の主人公というポジションから降りざるを得なくなったと考え始めたからだろう。いや自分の人生の主人公はいつだって自分だと主張する人は「人生の」を「世界の」に置き換えると分かりやすい。俺はポケモンのランクマに勤しんでいたころはいつか世界一になれると本気で信じてやっていた。だが大学である程度の目標を達成して以降、終ぞ同じステージには立てなかったし、そうこうしているうちに就職してあの時ほどやりこむ時間もなくなっていった。対人ゲームは時間をフルベッドできる無職に圧倒的アドバンテージがある分野だ。だからこそ社会不適合者ほど強いというロジックが成り立つし、それはある種の救いでもあった。推し活もゲームもその根底は自己のアイデンティティの証明という要素があるように思う。目立たない、うまくいっていない自分でも輝ける場所があるという蜘蛛の糸が、更なるサイクルへと誘う構図。こう書くと悪いことのようだが、別にそれを否定する気はない。俺は今でもアニメやゲームが大好きなのは変わりないが、向き合い方が変わったという話だ。別に死ぬ気でランクマに潜り一番を目指さなくても自尊心を保てるようになったからオタ活にフルベッドしなくなったという心境の変化に過ぎない。推し活でも何でも一つのことに一生懸命になれることは才能だし、今の俺からすると羨ましくも思う面もある。

ただ一つ言えるとすれば、孤独を感じやすいタイプは注意すべきだとは思う。ある時ふと虚無感に襲われてオタクでは何かになってしまう恐怖。その平均年齢が35歳だの40代だのという話が先述の話題の真相だ。中には一生オタクを続けられる人もいるだろうが、自分はそうではないと数年前に自覚したので急いで伴侶を探し始めた。結果的に30歳寸前で結婚できたが、ちょうど脱オタク化が進行し始めたタイミングだったので良い行動だったと思う。ネットで議論の対象になりがちな結婚をメリットデメリットで語るやつはナンセンスだとは思うが、あえてメリットを挙げるなら孤独を感じなくなったことだろう。俺の場合それはオタ活やランクマでは埋まらなかったし、自分と過ごしてくれる相手がいるという事実が自尊心の維持につながる。ここまで書いてぺーやんも社会化されたつまらない人間に成り下がったなと思われても仕方ないかと思われるが、一応オタクではあると思う。毎期何本かアニメは見てるしネットの流行りにも目を通している。脱オタク化へのせめてもの抵抗がこのブログであるわけだし。まあ昔みたいな異常行動は減ったと思うが、成長したと前向きに考えてほしいところだ。

 

エロゲで人生変わった男

ここまで自分のここ数年の変化について書いてきたが、この話と切り離せないものが一つある。『サクラノ詩』は2015年発売のゲームで、ジャンル的にはエロゲに大別される。俺はこの手のジャンルの作品を全くやらないが、ある時偶然ニコニコ動画で主題歌が流れてきたのをきっかけに触れることになった。何というかこの作品について語るのは結構難しいのでそれは別の機会に譲るとして、大事なのは結果としてこの作品が俺の人生観に大きな影響を与えた点だ。今時エロゲで人生変わったとかwwwと笑われるかもしれないが一旦聞いてほしい。

作中で「絶対的な美」「相対的な美」という対称的な概念が登場する。前者は他者を必要とせずそれ単体で完成する美しさ、後者は他の作品や他の作者、そういった自己以外の要素との関係性の中で成り立つ美しさを指す。他にも「強い神/弱い神」等の言い換えもあるが大体同じような意味だ。翻って過去の俺は前者を目指していたように思う。ポケモンで一番を目指すとか、オタ活に精を出すとかそういう自己実現の類だ。一方で最近の俺は後者寄りの考え方に近い。自分の利得を追求する方針は変わらないが、他者との関わりの中に生まれる自己実現に比重を置くようになった。脱オタク化はまさにそれだが、これから衰えていく自分という存在を受け入れて他者との関係性の中に生まれる快を大事にする方向にシフトし始めた。だから最近は誘われた飲み会やイベントにはなるべく出るようにしている。繰り返しになるが、このスタンスの違いに正解はない。作中でもどちらの美が優れているかという議論には結論は出ていない。そのほかにも「幸福とは美酒のようなものだ」という考え方も俺にとってキーになっているが、それはここでは書かないので実際にプレイして知ってください。最近リマスター版出たのでホットな作品です。

その後2023年に続編にあたる『サクラノ刻』が発売された。当時の俺は28歳。泣いた。ボロボロ泣いた。何ならこの年で一番泣いた瞬間は本作の4章と5章をやっている時だった。なぜなら主人公が当時の俺と同い年で、人生の岐路に立たされていた点も含めて過度に感情移入したからだ。エロゲの主人公にシンパシー感じて号泣するアラサーという文字列は俯瞰して見ると相当きついものがあるが、事実なので正直に書く。俺はこの主人公に触発されて婚活を始めたと言っても過言ではないのだ。一応書いておくが、別に本作は主人公がアラサーで婚活する話ではない。ただ主人公が頑張る姿に背中を押されて俺が婚活を始めたという流れなだけだ。

そういう意味で、俺がまともな社会性を獲得できたのも結婚できたのも『サクラノ詩/刻』の影響に寄るところが大きいので、感謝の意味も込めて長々と書いてきた次第だ。恩返しとして主題歌の『櫻ノ詩』は結婚式で流させてもらったし新婚旅行では作中に登場した絵画の多くが展示されているルーブル/オルセー美術館聖地巡礼した。改めてすかぢ先生ありがとうございます。

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というわけで、皆さま来年もよろしくお願いします。良いお年を。

 

 

 

2025年9~12月履修コンテンツ マリカワ/ZA/昼メシの流儀/カイジetc

回を経るごとにネタにできないレベルの狂人になっていく男

 

 

アニメ

野原ひろし昼メシの流儀

僕のヒーローアカデミアFINAL SEASON

 

漫画

賭博堕天録カイジ(17歩編・救出ゲーム編)

 

ゲーム

マリオカートワールド

Pokemon LEGENDS Z-A

 

映画

わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)~ネクストシャイン!~

映画ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会完結編第1章

映画ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会完結編第2章

 

 

 

書籍

日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること

 

その他

結婚式

 

 

ピックアップ

マリオカートワールド

久々にマリカをプレイしたが、ゲームとしての基盤が盤石なので相変わらず面白い。今作の特色であるオープンワールドについてだが、レースゲームをオープンワールド化しようとする試み自体は良いものの、それが上手くいっているとは言い難いと感じる。オープンワールドの特徴である視界全てを自由に探索できるという要素がレースゲームとは噛み合わせが悪い。プレイすると5分で分かるが、普通のマリオと違ってマリカは動きに制約があるのだ。例えば右斜め後ろ(プレイヤー視点で右手前)に移動したい場合通常のアクションゲームならスティックを↘方向に倒すだけだが、マリカはBボタンを押しつつ感覚と逆方向にスティックを切る必要がある。マリカはあくまでキャラクターが車体に乗っているのだから当然と言えば当然だが、それゆえにジャンプもロクにできないしできても高さが低い。望んだ動きができないので行きたい場所へ行くのも一苦労だ。もちろんマリカはオープンワールド世界を探索し美麗な景色を楽しむゲームでないことは重々承知の上で言っているが、一人用モード「フリーラン」はマップ内の隠れた場所にあるオブジェクトを集めることが目的となっているので移動の不自由さがそのまま不快感に繋がりやすい。飽きやすさを払拭するためのオブジェクト集めだが、通常のマリオと決定的に異なる操作性でマリオっぽい収拾要素をさせるのはシナジーが悪いことを痛感した。

だがレースゲーム部分はさすがマリカといった出来栄えで特に文句なく楽しめている。結果的にマリカのオープンワールドは俺とは合わなかったが、IPに胡坐をかかず常に新規性を模索するチャレンジングな姿勢はいいと思う。

 

Pokemon LEGENDS Z-A

ポケモンの中ではかなりの傑作。ちゃんとDLCまでクリアして70時間近くは遊んだ。今作で特に優れているのがキャラクターだ。これまでのポケモンといえば主人公が冒険してリーグ優勝するまでの過程を描くというフォーマットにこだわるあまり、作品ごとにポケモンや舞台設定を挿げ替えた単調なシナリオとなっていたが、サンムーンあたりから風向きが変わりキャラクターを掘り下げ始めた。昨今のアニメや漫画はキャラクタービジネスと言われるように、いかに壮大で感動的なストーリーを作るかよりいかに愛されるキャラクターをデザインするかが重視される。本作は従来のRPG的な、ポケモン世界を旅して強くなっていく主人公をロールプレイする要素を極力減らし、ミアレシティで起こる事件を多くの人物とともに解決していくという比較的スケールの小さなシナリオとなっている。すなわち主人公に従属する世界と登場人物という構図から世界の中に生きる人々とその一人としての主人公という構図への転換。メタ的に一段上にいるプレイヤーを投影した主人公というよりは、作中世界に生きる一人としての主人公(=プレイヤー)。周囲の登場人物を深堀りするために主人公のポケモンリーグ制覇という大目標を排し単体の街にフォーカスしたのはいい視点だと思う。

本作はあらゆる視点でミアレシティという一つの街を軸にし、それに合わせたミクロな縮尺で作られている。先述のキャラクターにしてもそうだし、シナリオも徹頭徹尾ミアレシティ以外は語られない。スケールを小さくしたことで等身大のポケモン世界を体感することができるのは本作の長所だ。適当に街を歩いているだけでポケモンと人の暮らしを見ることができるし、サブクエストでは人とポケモンの共生で起こる課題やメリットなど、実際にポケモンがいたらこんなだろうなというポケモンオタクの妄想の具現化を垣間見ることができる。フィールドを街ひとつに限定したのはオープンワールド的視点でも慧眼だ。普通のオープンワールドだとどうしても世界の広さに対して街やプレイヤーの縮尺が合わなくなる(例えばひとつの世界なのにプレイヤーが30分もキャラクターを走らせれば端まで行けてしまうようなチグハグさ)が、ワールドを街ひとつとするならその問題をかなり解消できる。本作はキャラクターとオープンワールドの二つの要素をミアレシティという一つの街に照準を合わせ構築することで、ポケモン世界のリアリティを極限まで追求した一本と言えるだろう。

ちなみに本作は従来のターン制バトルではなくリアルタイムでのアクション要素を取り入れているが、これはあまり上手くいっていないように感じた。アクションと言っても自分のアクションを連続して叩き込むことは難しくコンボなどの要素も皆無だ。せいぜいテイルズくらいの感覚でターン制バトルに毛が生えた程度のものでしかない。ただこれは俺のポケモンバトルに求めるハードルが高かっただけなのも否めない。大事なのはポケモンで新規にアクション要素を取り入れたという点であり、今後改良が進めば十分本編にも取り入れられるポテンシャルは秘めている。

 

野原ひろし昼メシの流儀

まさかアニメ化でここまでヒットするとは思わなかった。アニメ化以前はひろしを自称する一般人が食レポする漫画というようなミーム的扱われ方をされており、それはアニメ化以後も変わりないが、純粋に作品としてのポテンシャルを評価されるようになったのを感じる。かくいう俺もアニメから入った人間なのだが、少なくとも叩かれるほどではない程度には面白い。

一見普通のグルメ漫画クレしんスピンオフでやる意味がなさそうだが、本作が他のグルメ漫画と一線を画す要素がひとつだけある。それはひろしが異常に周囲を気にする人物だという点だ。俺が思うにグルメ漫画・アニメはどこにフォーカスするかで区分けすることができる。ひとつは『ダンジョン飯』『異世界食堂』のようにコンセプトへのフォーカス。次に『極主夫道』『飯ぬま』のようなキャラクターへのフォーカス、最後が『孤独のグルメ』『美味しんぼ』のような食事へのフォーカス。もちろんこれら3要素のうちどれか一つなんてことはなく、『ドカ食い大好きもちづきさん』のように複数の要素で構成されるものが一般的で、先例もその比重が違うだけだ。『昼メシの流儀』は野原ひろしというキャラクターにフォーカスした作品なのだから当然キャラクター重視ではあるのだが、食事に対してひろしがどのようなリアクションを取るのかというコンセプトで作られているのかと思っていた。それはまあ嘘ではないのだが、食事の味へのリアクションというよりは食事中のひろしが周囲にどう思われるか、または周囲がどんなものを注文してどんなリアクションをしているかを気にするひろしを観察するという作品となっている。通常のグルメ作品は登場人物は主人公のみ、食事とタイマンで対峙し、食事が主役でそれを解説する主人公という構図のはずだ。ところが『昼メシの流儀』は食事はおまけでしかなく(パンケーキ、寿司など料理ジャンル名がサブタイトルなのもそれを裏付けている)、食レポするひろしのリアクションがメインですらなく、食事を通じてひろしがどう変化するか、周囲との関係性がどう変わるかという物語性を有しているのが変則的な作品だ。後半は特にそうで、食事をフックにひろしやその同僚らがどう関係性を変化させるかというオフィス系コメディの様相を呈してくる。だからすごいというわけではないが、それなりにオリジナリティのあるグルメ作品として一定の評価をしたい。

補足:グルメ漫画のカテゴライズについて。

コンセプトへのフォーカスとは、『ダンジョン飯』を例に挙げれば「ファンタジー世界ではモンスターをどう食べるのか?」というような食事・調理という行為自体に意外性を付与するジャンル。ゆえに『ラーメン発見伝』『酒のほそ道』のように料理ジャンルを限定する作品もここにあたる。

キャラクターへのフォーカスは食事するキャラクターのリアクションを楽しませることを目的とするジャンル。食べるとエロ顔する『飯ぬま』とか『衛宮さんち』『昼メシの流儀』といったスピンオフ系がここに位置する。

食事へのフォーカスは純粋に食事の味をレポートする王道のジャンル。『孤独のグルメ』『美味しんぼ』など。先の『ラーメン発見伝』などのジャンル限定系はこれとコンセプト系の複合とも言える。

で、『もちづきさん』は高カロリー飯限定というコンセプトを持ち、美少女もちづきさんの萌え顔とキャラの異常性を楽しみつつ、オリジナリティのある料理をレポートする先述の全てのジャンルを網羅する稀有な作品なのでそりゃヒットするわという感じ。

 

 

賭博堕天録カイジ

相変わらずカイジは面白い。「17歩編」はこれまでの章とは異質で、終始カイジが孤独にギャンブルをする内容になっている。『カイジ』は基本的には、極限状態でのギャンブルの中でも信頼できる仲間を見つけ団結して巨悪を討つという構成になっている。生死を賭けた極限状態でも信頼関係が結べるという人の善性を信じる人間賛歌が福本作品の本質だ。安藤らに裏切られた限定ジャンケンではカイジは敗北するし、逆に仲間からの信頼を勝ち取った鉄骨渡りや地下チンチロ、Eカードでは勝利する。ギャンブル自体は一対一の勝負だが、イカサマを始めとした敵側の策略を打ち破るため仲間を協力するというのがカイジ陣営における勝利パターンだ。しかし「17歩編」は当初信頼していた三好と前田に裏切られ、それに気付いたカイジが策を講じて村岡らを打倒する。仲間からの裏切り展開はカイジでは頻出だが、裏切られたまま勝利するのはかなり珍しい。三好らはカイジに謝罪するどころか開き直り結局最後まで和解することはなかった。17歩編だけでは単にカイジが賢かったから勝てたというだけでテーマ的な深みがないが、次の救出ゲーム編で『カイジ』の本質に切り込むことになる。人間の根源は醜悪だとする和也と善だと信じたいカイジの対立構造。これがこれまでの全ての章に通底する本作のテーマであり、救出ゲーム編で描かれる内容でもある。カイジが三好の裏切りに気付いたのも「三好が裏切っているかもしれない」という疑念を抱いたから、すなわちどれだけ苦楽を共に過ごした間柄でも無根拠に100%信じられる人間などいないとする和也の思想の正当性を担保してしまっている。ただ和也とカイジの対決の答えは救出ゲーム編でおおよそ出てしまっており、ワンポーカー編は読んでいないもののおおよそ結末を予想できてしまう。救出ゲーム編では固い絆で結ばれた光山・チャン・マリオも極限状態で光山が裏切ってゲームオーバーになるが、カイジの身を挺しての策で3人の命は助かるというオチになる。つまり人間は本当に追いつめられると他人を裏切るという和也の主張に一定の正当性はあるが、カイジが考えるようにそれでも倫理的に、利他的に行動しようとする善性も否定できない、というもの。むしろチャンらは和也の妨害がなければゲームをクリアできていたと考えるとカイジの主張の方に軍配が上がる。このときのカイジも大金を失ってでも見ず知らずの男らを助けたいと理性的に考えていたわけではなく反射的に行動してしまっただけなのだが、そういう抜けているところがカイジらしい。つまるところ、和也とカイジの対立は善悪の二元論で語れるものではなく、人には汚い部分も弱い部分もあるし善人も悪人もいるけれど、だからこそ清く人間らしく生きようとする姿勢が美しいというストレートな人間賛歌に帰着する。ワンポーカー編、時間があったら読むリストに追加しとく。

 

映画ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会完結編第2章

タイトルなげえ・・・。ニジガクはアニメ2期まで見ていたがどうやらそのあとOVAがあり劇場版という流れらしい。OVAは公式でダイジェスト版が、劇場1作目はDアニメストアで見て追いついたので2章で映画館へ。

youtu.be

1章は割と退屈だったが2章は想像を上回る面白さだった。設定単位で見れば無限にツッコミどころがあるし「そうはならんやろ」という突飛な展開が多いがそれはラブライブお家芸と目をつぶるしかない。そういうノリをいちいち指摘する減点方式で見れば赤点だが、ストロングポイントを評価する加点方式で見れば結構高得点。

ラブライブ!シリーズにおけるニジガクの他作品との差別点は言うまでもなくソロで活動するというコンセプトにある。同じ部活に所属しつつも各々が別の目的意識で動いているのが従来とは異なる。それは無印やサンシャインの廃校回避のような、チームとしての明確な目的がないことを意味し、実際劇場版で開催される大会でもニジガクメンバーが優勝へのモチベーションが薄い。挙句の果てにはソロでの大会だし部員同士で競争するのは気が引けるみたいな温い発言まで飛び出す始末。みんな個性があって良いところがあるから争わないといったZ世代的価値観で作品が塗り固められている。俺は当初そうした価値観に懐疑的だったが、映画を見てニジガクが何を目指しているか理解して色々と受け入れ始めた。つまるところニジガクはスクールアイドル活動を自己実現・自己表現の手段と考えているのだ。これまでの作品で見られた「廃校回避のために学校をアピールしなければならず、そのためにスクドルで成り上がらなければならない」といった大きな物語が存在しない代わりに、各部員の個性の発揮やキャラクターとしての成長といった小さな物語の集合体として映画が構成されている。彼女たちはスクドルを通して自己表現がしたいのだから大会の順位には大してこだわらない。たとえ一位じゃなくても自分を思い切り表現することができれば満足なのだ。活動が自己表現の一種と考えるとライブパートの作劇上のポジションも理解でき、ニジガクにおけるライブは成長の成果と位置付けることができる。特定のキャラを掘り下げるのに最もオーソドックスなのは課題を乗り越え成長することだ。その例に漏れず、えいがさきでも各メンバーが多種多様な課題に直面する。多くは他の部員や大人、現地の他のスクドルと関わることでそれを乗り越えひとつ成長する。その成長の証明こそがライブパートであり、それは新しい自分を表現し自己実現した様をお披露目する場なのだ。だから物語開始時点で乗り越える課題がない、または少ないキャラは早々にライブを済ませてしまうしその逆も然りだ。

スクドル活動を自己実現の場と捉える際に象徴的なのがせつ菜の話で、しっかり2章のコアのテーマとなっている。せつ菜はニジガクで唯一芸名を使用しており、本名は菜々で内向的なオタクだがスクドル時にはせつ菜を名乗り社交的で前向きな像を作り上げる。菜々はせつ菜を自己実現した姿だと俯瞰的に捉えていてスクドル時だけなれる姿だと理解している。それゆえにスクドル活動が終わったら自分がどうなるか思い悩み、誰も触れなかったスクドルの「終わり」について思案する。大会の優勝という目標があり、それを達成したら終わりという区切り方があった従来のグループと違い、ニジガクには卒業以外に明確なピリオドがない。個々人が特定のタイミングで自身の活動を終わらせ華々しく散るしかない。スクドル活動が自己表現の場であるニジガクにとっていかに美しく最期を飾るかというのは大きな命題だ。だから順位を気にしない彼女たちも運営の不手際という望まない形で大会が終了するのは避けたかったのだ。優勝というビジョンは共有していなくても各々が最高のパフォーマンスで自己表現したいという考えは共有していて、ここにニジガクがチームとして活動する契機が生まれる。ソロとは言いつつそれぞれが最高の「終わり」を迎え自己実現するために結束してスクドルする。まさしく最終章にふさわしいニジガクらしい映画だったと思う。

ちなみにミア関連の家族の話も良かった。有限の友情(ニジガクでのスクドル活動)と対比される家族の永遠の絆。一見後者が優位そうに見えるがそれは呪縛でもあり、逆説的に前者が自由の象徴とされミアの本心をあらわにする。ニジガクのソロ活動は誰にも束縛されず自分のやりたいことをやれる=家族に縛られていたミアの心の解放=成長、自己実現という構図。そしてその有限/無限の対比から連なるせつ菜の「終わり」の課題への展開が上手くて感心した。3章も多分劇場に行くと思う。

わたなれネクストシャインの感想 れな悪で終わるのはもったいない

見せ場の決意表明なのに半泣きで縋るのれな子らしくてすこ

 

 

百合映画満員御礼

わたなれ映画、初日に見てきました。いや~よかった。映画公開が決定してすぐに、絶対に休めない用事があるからと上司に頼んで有給取ってた甲斐がありました。単に僕が異常に熱量があるだけで一般受けはしないだろうなと踏んでいたんですが、まさかの予約時点で満員で、当日は劇場にオタクが集結していて圧巻。百合アニメというニッチなジャンルでこの入りは快挙でしょう。劇場数を絞って公演回数も1日1回がデフォルトと限定的なのが惜しいですが、この結果は制作側も想定外だと思うのでしょうがないですね。そもそも集英社がバックについていないと映画化も怪しかったはずなので、『わたなれ』はつくづく幸運です。
さて自分は原作既読で展開を知っていたのですが、映画のクオリティには概ね満足で、想定通り最後は泣いてしまいました。周囲のオタクたちもさぞかし目頭が熱くなっているだろうと思っていたのですが、すすり泣きというよりは失笑のほうが多かったです。おいおい、この展開は泣くだろ、「わた泣き」するだろ。「わた泣き」という単語を流行らせようとちょいちょいポストしてたのに感想を検索しても自分以外誰も使ってないし。一緒に見に来た原作未読のオタクは閉場後に眉間を押さえて「いやいや・・・」と唸っているし。「れな子悪くね?」って感想は分かる、分かるんだけど、それで終わってしまうのはもったいない!あの結論だけ切り取るとそう取られても仕方ないんですが、一本の映画として見るとちゃんと筋が通っているしテーマも一貫しているんです。というわけで今回は映画の感想と称して『わたなれネクストシャイン』のテーマと絡めてれな子を擁護していきます。当然ネタバレあります。

ネクシャのテーマ:れな子の自己肯定

れな子が出した「真唯と紫陽花の二人と交際する」という結論は、ただ浮気性だから言ってしまったとか、断りきれずになし崩し的に言ってしまった、という意味での発言でないことは、映画を見た方なら理解していると思います。この答えは物語的にきちんと意義があって、これまでの描写や過程を経て導かれたものなので、作劇上かなりの正当性があります。
映画わたなれは途中の小気味良いコメディや際どいシーン、終盤の展開に目が行きがちですが実は一本の映画として構成がしっかりしています。『ネクシャ』で一貫して描かれているのはれな子の自己肯定についてです。「わたしはわたしを、好きになりたいから!」という映画のキャッチコピーはそんな今作のテーマを端的に表しています。
物語はアニメ版ラストでれな子が紫陽花さんに告白されるシーンの続きから始まります。以前に真唯にも思いを伝えられていたれな子は二人の気持ちにどう答えたらよいか葛藤する、というのが映画の大筋で、その過程でこれまで出番の少なかった香穂ちゃんを掘り下げつつ、そこでの経験を通じてれな子が成長し二人の思いに向き合っていきます。

まず二人からの告白に対しなぜれな子が葛藤するかというと、自己肯定感の低いれな子はなぜ二人が自分に好意を抱いているか分からないからです。二人からの好意を受け止めきれず逃避してしまう自分、それによって現在進行形で二人を傷つけてしまっている自分が嫌いで仕方ない。彼女は思案する中で、自分は人に嫌われたくないという思いが全てに先行していることに気付きます。普通でいたいとか陽キャになろうとしたのは、没個性的な量産型女子としてグループに溶け込めば孤立しないから。過去のトラウマから、彼女は誰かに嫌われて孤独に陥ることを最も避けるべき事象だと心の奥深くに刻まれているわけです。が、二人の告白に返事をしてどちらかを選ぶことは、選ばれなかった方を傷つけてしまう。優しい彼女は人を傷つける自分を許すことができないし、そうすることでさらなる自己否定に陥るのは目に見えている。

そんな折、香穂ちゃんの掘り下げイベントが始まります。香穂ちゃんは元々陰キャで人見知りでしたが努力して陽キャとなった、れな子の鏡写しのような存在であることが判明します。香穂ちゃんは学校での陽キャな印象とは対照的に、自作の衣装でコスプレイベントに出るほど重度のオタクで、コスプレの相方としてれな子を誘います。同じ陰キャ出身でありながら、現在の香穂ちゃんは「コスプレが好き」という自分の気持ちに正直に生きていて毎日が充実しています。れな子はこの体験から「自分の気持ちに正直になる」ことが、「自分を好きになる」ことに繋がることを学びます。言うまでもなく、今回の課題におけるれな子の本心とは「真唯と紫陽花さんを傷つけたくない」です。れな子は再び考えます。真唯のことも紫陽花さんのことも大好きで、どちらも傷つけたくないし幸せになってほしい。そのためにどういった選択をすべきなのか。二人とも利他的で優しいのでもう一方の相手を想い身を引くけれど、それでは全員が幸せにはなれない。この辺の描写は紫陽花さんとの遊園地イベントでありましたね。この一件を受けてれな子の答えはほぼ決まったと思います。

さて、ここで香穂ちゃん関連でもう一波乱あります。れな子と香穂ちゃんは大規模なコスプレイベントに出ることにしましたが、本番直前のアクシデントで香穂ちゃんが陰キャに戻り戦意喪失してしまいます。ここでれな子が香穂ちゃんに発破をかけるシーンが本当にいい。
「失敗することを恐れて後悔するのはやめよう」とれな子は言います。恐れるべきは失敗することではなく挑戦しないことだと。例え失敗しても後悔しない生き方をしようと。香穂ちゃんとれな子は鏡写しの存在なので、それらの言葉は全てれな子自身への激励となって反射されます。れな子は何かあるといつもネガティブな言葉を並べて現実逃避しようとしてきたし、そうやって逃げ癖がついている自分が嫌いだった。失敗することは恐い。過去にそれで孤立したことがあるから。でもずっと逃げ続けて自己否定を重ね続けるのはもっと嫌だ。
自分を好きになるということは失敗しないように生きるのではなく、後悔しないよう生きること。ありふれた答えかもしれませんが、アニメ、そして映画全体を通してれな子の成長が丁寧に描写されていたので感動とカタルシスがあります。

一旦ここまでをまとめます。れな子が陽キャになりたいと思うのは普通になりたいから。その理由は過去のトラウマからグループでの孤立を極端に恐れているから。そのため人に嫌われたくないという思いが強く、その場の空気を読んで曖昧な返事をしたり自分の意見を言えなかった。れな子はそんな自分のことが嫌いで、なぜ自分が真唯と紫陽花さんに好意を寄せられるか分からない。つまり本作のテーマであるれな子の自己肯定とは、そうすることでこれまでの順序が全て反転し、自己肯定によって真唯と紫陽花さんへの答えが導かれます。
自分を好きになる→(香穂のように)誰に何と言われようと(嫌われることを恐れず)自分の気持ちを表明できる→トラウマの克服→普通でいることへの脱却というロジック。香穂の掘り下げと告白への返事という一見別ベクトルの展開は、れな子の自己肯定というテーマで一つに繋がります。

そして最後のれな子の二股発言はこのロジックを経ないと正当化できません。あれほど普通にこだわっていたれな子が普通でなんていらないと言うほど、彼女の中で真唯と紫陽花の存在は大きくなっていました。二人への愛情は、嫌われたくないというれな子の恐怖心を凌駕していたわけです。二股という世間的には誤っているれな子の選択は、それを選択すること自体が彼女の覚悟を示すものであると同時に、後悔しないよう自分に正直に生きる(周囲に左右されない)というネクシャでの彼女の成長を象徴する行動です。もちろん二人を傷つけたくないという思いはあるけれど、利他的というよりは利己的な動機として二股発言を解釈する方がテーマとして筋が通っています。
一見ふざけているように見えて頑強なロジックがあるのはわたなれの作風ですが、ひとつの映画作品としてもテーマとキャラクターの成長、結論が結びついていて完成度が高いです。

 

れな子は悪くないと擁護します

れな子の二股発言は結論だけ聞くと笑うかドン引きするかなのに作中の過程を知っていると感動的なアンサーになってしまう点がわたなれっぽくていいのですが、とはいえれな子が悪いと言われるのも十分理解できます。だって色々言い訳しても二股は二股だし・・・。実際僕も「れな子が悪い」というネットミームは好きですが、それだけだとれな子が浮かばれないので頑張って擁護していきます。

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以前にも書いたのですが、作中でれな子が駆使した「普通」論法は百合作品ならではのロジックで感動しました。同性愛という普通ではない愛の形を受け入れるのだから同じく普通でない二股も受け入れろという理論。これは百合作品でしか使えない上に、普通への固執から脱却したれな子の成長ぶりも表しており、二重三重の文脈で解釈可能な天才的アンサーです。
という話を一緒に映画を見に行って終幕後に頭を抱えていたオタクに語ったのですが「同性愛は性的指向として認められつつあるけど二股は倫理的にダメだから同列に語れなくない?」と反論されました。なるほど、それは一理あります。確かに令和の社会通念上、LGBTQは表立って非難されることは少なくなってきましたが、一方で現在に至るまで浮気や不倫はバッシングの対象です。れな子は戸籍上独身ですし肉体関係も持っていないので不法行為にはあたりませんが、浮気者に対する世間の風当たりは冷たいでしょう(紗月さんの「ゴミ・・・」という眼差しがそれ)。が、れな子の二股は「ポリアモリー」という恋愛スタイルにあたります。ポリアモリーと浮気の違いは、その関係性をもう片方の交際相手に公言しているかどうかです。れな子の場合真唯や紫陽花さんと付き合うことをもう一方にも伝え、一応許可を貰っているのでポリアモリーです。浮気がダメな理由をもう片方の交際相手が悲しむからと仮定するのなら、ポリアモリーのれな子カップルの結成は直ちにダメとは言えません。またLGBTQのように、将来的にポリアモリー的愛の形が認められる場合もあります。まあ現時点での社会通念だとポリアモリーは浸透していませんし、ポリアモリーだから二股OKという理論も事後的に僕が言っているだけでれな子の説得時点では不確定だったので無理筋と言えば無理筋です。

というわけで別のアプローチかられな子を擁護してみましょう。倫理学的な側面から見ると、今回のれな子の行動はどう理解することができるでしょうか。倫理学には色々な分野がありますが、「何が善い行いか?」について考える学問は規範倫理学と呼ばれます。今回は規範倫理学の視点でれな子の二股について考えてみましょう。
規範倫理学には大きく3つの考え方があり、その一つ目が帰結主義です。この考え方はその行為の結果どの程度幸福の総量が上昇したかで善悪を判断します。今回の二股をするしないで考えると、二股せずどちらかを選ぶ、あるいはどちらも選ばない場合真唯が渡仏して帰ってこず紫陽花さんや紗月さんが情緒不安定になりクインテット崩壊という可能性がありますが、二股すればとりあえず丸く収まり全員がハッピーになったので善い行いだったと言うことができます。
次が義務論で、これは行為者の利己心に関係なくその人にとっての義務によって行われた行為は正しいとする考え方です。例えば友人の見舞いであれば、友人の見舞いには必ず行かなければならないという義務を課しているのであれば、その友人のことを一切心配していなくてもばその行いは正しいと言えます。れな子は何かしらの義務で行動しているわけではないのでこの立場で擁護するのは厳しいです。しいて言えば友人が傷つくのを見たくないという思想は持っていますが、れな子は二人を守る義務を果たすためというよりは、自分が二人を大事にしたいと欲望しているから二股をするという利己心に忠実になった結果の行動だからです。
最後が徳倫理学で、前二つが行為そのものに着目したのに対しこちらは行為者に着目する考え方です。この考え方では善い人が行った行為は正しい、善い動機によって起こされた行動は正しいとされます。何をもって善い人、善い動機とするかは諸説ありますが、まあれな子は善い人と考えて異論はないでしょう。散々クズだのゴミだの弄りはしますが本気でれな子のアンチをしている人は見たことがありませんし、何なら読者視聴者からかなり愛されているでしょう。それもこれもれな子が私利私欲のために動いているのではなく本当は優しい人で、今回の行動も良い目的のために決断したことだと皆が分かっているからです。というわけでこの立場からもれな子の二股は善い行いだと主張できます。

まあ長々とれな子を擁護してきましたが、やはり社会通念上れな子の行いは手放しで賛同できるものではなく、賛否両論あるのも頷けます。たださっき書いたようにれな子のそういった行動を含め視聴者は愛していますし、間違っていても後悔しない行動をするというのは今作でれな子が得た気付きでもあります。間違いつつも必死に考え進んでいき成長する、いや~青春ラブコメとして王道ですね~。やってることはアレですが。
とにもかくにもわたなれがこんなにヒットして嬉しい限りです。劇場に通いまくって2期作ってもらおうな。

わたなれ(原作)の感想 これがロジック&パッション百合

※原作1~7巻、SS集、短編集のネタバレを含むので注意!映画を見る予定の人は今すぐブラウザバックしろ!!

実は共学設定

 

 

『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』(以下わたなれ)を読んだ。約10年ぶりに新作ラノベタイトルを手に取ったが古き良き平成ラブコメのノリが俺の好みに完全に適合していて楽しく読めた。アニメのハイテンションさとテンポ感で気付きにくいが、実はわたなれはコンセプト・シナリオ・キャラクターに至るまですべてが計算されたロジカルな作品だ。世の中には行き当たりばったりで作ったら偶然面白くなったタイプと予め計算して作るタイプのクリエイターがいるが、みかみてれん先生は間違いなく後者だと思う。ここでは一見ノリで描いているように見えるわたなれがいかにロジカルな作品であるかを書いていこうと思う。

 

ありそうでなかった新ジャンル「ガルコメ」

『わたなれ』において重要なのは作者自身が本作のジャンルを「ガルコメ」と定義している点だ。「ガルコメ」とは「ガールズラブコメ」の略称であり、主要人物に女性キャラクターしか登場しないラブコメディという意味である。このタイプのコメディ作品は数あれど、ラブコメとなると意外と少ない。なぜならラブコメとは暗黙の了解として異性愛をベースとしているからだ。ラブコメの正確な定義は曖昧だが、テンプレートとしては男性主人公に対し一人、または複数の女性ヒロインが登場し交流を深めながら恋愛関係に発展していく・・・というイメージになるだろう。恋愛要素とコメディ要素の比率は千差万別だが、恋愛要素が入っているかどうかが単なるコメディとラブコメの違いと言っていい。ここで「ラブコメの恋愛って別に異性愛じゃなくてもよくね?」という発想に至ったのがわたなれである。女性同士の恋愛を描いた作品は百合作品としてカテゴライズされるが、その手のジャンルの作品は恋愛に重きを置いているものが多い。なぜなら異性愛ではなく同性愛を描く理由について語らざるを得ないし、そうなると話が重くなりがちだからだ。いくら令和とはいえ同性愛はまだまだタブー視されており、そこを無視してストーリーを展開していくのは難しい。

翻って『わたなれ』は百合ではあるが作品自体の雰囲気を明るくしようという試みが見て取れる。それは閉じコンになりがちであった百合作品のターゲットを広げたいとか単純に幅広い層にリーチしたいという商業的な要請ではあるが、俺みたいな百合作品に縁遠いオタクが本作を手に取っている時点でその目論見は成功している。百合作品の雰囲気を明るくするにはどうすればよいかという問題の回答がラブコメ要素をふんだんに取り入れることだ。別に他の百合作品にも『ゆるゆり』などコメディ色が強い作品は山ほどある。『わたなれ』とそれらとの明確な差別点は美少女ノベルゲーム的、かつ日常系ラノベ的フォーマットで書かれている点にある。平成のラブコメというと平凡な主人公がひょんなことから美少女たちとコミュニティを形成していくというあれだ。その男主人公が美少女になったのが『わたなれ』ですと主張しても大きく外しはしないだろう。つまり『わたなれ』の主張する「ガルコメ」とは「ガールズラブ・コメディ」というよりは「ガールズ・ラブコメディ」というニュアンスの方が近い。読者の受け取り方によって色々な主義主張はあるにせよ、女性キャラクター同士のコメディが下地にありその上に百合が乗っているというイメージで俺は読んでいた。じゃあラブコメの男主人公を美少女にしただけの安直なラノベなんですかというとそんなことはなく、後述するがラブコメである必要性、百合である必要性をきちんと描写している点がわたなれのポイントだ。

 

美少女主人公は神

なぜラブコメの主人公を女性にするといいのかを考えるにあたり、まずは読者に好かれる主人公像について考えてみる。大前提としてラブコメの主人公はあまり好かれない傾向にある。ラブコメにおいて読者は美少女を見たいのであり、主人公を見たいわけではないからだ。『Toloveる』でも『ニセコイ』でも『カノ借り』でも何でもいいが、どのヒロインが一番好きかという論争は起こっても主人公に関するポジティブな話題は少ない。ラブコメの主人公に求められるのは美少女の邪魔をしないこと、不必要に介入しないこと、読者に不快感を与えないことなのだ。だからラブコメの主人公というのは大抵どこにでもいる普通の男子高校生といった没個性的なキャラクターにされる。それでも何の取柄もないのにモテるのは不自然だという読者に配慮して『五等分の花嫁』の風太郎のように勉強ができる設定の主人公が流行った時期もあった。ラブコメは主人公に自己投影して楽しむことを想定されているジャンルなので、メインターゲットはオタク層の男性から共感しやすい主人公にする必要がある。ゆえにサッカー部で活躍しているような陽キャっぽい要素ではなく学力や優しさというオタクでも手にできる特技を持たされている。他には実はオタクですとかゲーマーですといったインドア趣味を持っていることも多い。逆に『SAO』のキリトのような圧倒的な強さでヒロインをメロメロにするタイプの主人公も好かれやすい。戦闘の強さは単純に強力なモテ要素であると同時に自己投影して楽しみやすい要素でもあるからだ。このタイプは共感タイプの主人公と比較しても能動的にストーリーを動かしやすいという利点もある。

この「好かれる主人公」を考えた時に主人公を女性にするのは単純だが強力な一手だ。そもそも主人公を無味無臭にする理由が「男が邪魔」という点にあるのだから、全員を美少女にしてしまえば問題は解決するのだ。さらに主要キャラ全員が女性であれば萌えアニメとして戦うことができ、きらら作品のような美少女しか見れないという潔癖な層にもリーチすることができる。本作はその上で百合要素が乗っているのだから地力は先述の作品群よりも上である。あとがきを読むに、作者は本来百合を描きたい欲求が先にあり、ライトノベルというメディアで展開するに当たりラブコメ要素を取り入れたという順であるが、俺としては異性愛をベースとしたラブコメという媒体に百合要素を取り入れて成功したという認識である。先述の共感系主人公よろしく、主人公のれな子は陰キャでゲーマーで平凡な女子高校生というオタク共感要素てんこ盛りであるが、彼女はそんな安直なキャラクターでは決してないし、本作の魅力の大部分はれな子のキャラクターが占めていると思っているくらいれな子は革新的なキャラクターだ。

 

甘織れな子という革命

言うほど悪くないと思います

甘織れな子がどういう人物か、あるいはどこが魅力なのかと聞かれれば弱さを抱えた人物だと答えるだろう。「弱さ」というワードはれな子の人物像を象徴すると同時に、わたなれに通底するコンセプトでもある。

れな子はとにかく卑屈で自尊心が低いキャラクターだ。元々根が明るいわけではないのと中学時代無視されたトラウマがそのような人格を形成したのだが、それにしたって度が過ぎている。地の文ではいつも自分を卑下して勝手に妄想を膨らませているし、それが転じて突飛な言動や行動をすることがある。コメディとしてはそうした異常な行動が面白くはあるのだが、それがそのまま彼女の克服すべき課題として横たわっている。わたなれは百合作品であると同時に、弱さを抱えたれな子がヒロインたちに出会い成長していく物語でもある。

れな子はゲーマーで、陰キャで、卑屈で、コミュ障で、と「女性である」という一点を除けば親近感を抱く存在としてデザインされたキャラクターだ。完全に偏見だがライトノベルはオタクしか読まないジャンルだから、ラブコメ主人公がサッカー部主将でイケメンの陽キャですと言われても素直に共感できないだろう(今ホットな『チラムネ』とかいうラノベは主人公がこの手の陽キャらしい。マジで?)。読者に共感してもらえるような主人公なら読者が自己投影できるような距離感の近いキャラ造詣をしているのが望ましい。だが彼女がただの陰キャと明確に違うのは上昇志向があって努力できるという点にある。れな子は中学時代、クラスメイトの遊びの誘いを断ったことがきっかけでクラスで孤立し不登校気味になる。だが彼女はこのままではダメだと思い、メイクを教わり無事高校デビューを果たす。スクールカーストトップのグループに加入した後もその立場を追われないよう日々努力している。れな子は人にチヤホヤされたいとかみんなが羨むような高校生活を送りたいという人並みの願望があるが、そのために真っ当に努力しようという姿勢がいい。天から果実が降ってくるのを待つのではなく、能動的に行動しないとそれが手に入らないことを分かっているのが好感が持てるポイントのひとつだ。

れな子は誰に対しても優しいと度々評されるが、それも彼女の弱さに起因するものだ。優しいのは「自分には何もないからせめて優しくないと価値がない」と思っているから、悪口を言わないのも「自分は人の悪口を言えるほど出来た人間ではない」という自尊心の低さの裏返し、多くの大胆な行動も自己保身の結果だったりもする。だが他人からしてみればれな子の内心は分からず表出した行動しか見ることが出来ないため、彼女がすごい人物に見えてしまうというトリックがある。例えば3巻の紫陽花さん回では家出をしようと彼女が駅に向かうとれな子がいて2人で旅行に行くことになる。れな子としては紫陽花さんが家出したら変な遊びを覚えてギャルになってしまうという意味不明な妄想を膨らませた結果の行動なのだが、紫陽花視点だといつでも自分に寄り添ってくれる天使に見えている。れな子視点だと紫陽花さんは可愛くて性格も良い理想的な女性だが、紫陽花視点でもそれは同じだ。紫陽花は自分は家族の面倒を見るのに疲れて家出をしてしまうような弱い人間だと思っているが、そんな姿さえれな子は肯定してくれる。客観的には紫陽花は優れた人間だが、コンプレックスというのは自己認識の話であってその手の慰めは意味をなさない。だがれな子だけは自分の弱さに共感してくれる特別な存在なのだ。

他方で、一応メインヒロインということになっている王塚真唯はれな子と対極に位置するキャラクターで、強さの権化のような存在だ。容姿端麗、スポーツ万能、モデルで世界的に有名で資金力もあるという非の打ち所のない人物。だが真唯は王子様のような理想の人物像を周囲から求められるがゆえに人に弱みを見せられないという悩みがあった。ひょんなことからそれをれな子に打ち明けることでわたなれの物語は始動する。れな子は日々自分の弱さと戦っているので、誰にでも弱さがあることを理解している。れな子は真唯にとって自分の弱さ=本心を見せられる唯一の存在となったことで、真唯にとって特別な存在になっていく。この傾向は他のヒロインでもそうだ。紗月さんは真唯への劣等感を、香穂は背伸びして陽キャを装っている姿を。そうしたコンプレックスをれな子は否定せず共感し、肯定する。なぜならヒロインたちより自分が劣っているからという卑屈な自認が、逆説的に彼女らを肯定することになるからだ。

この共感し、肯定するという過程においてわたなれが百合作品であることのアイデンティティが活かされている。例えば男主人公に対しヒロインが悩みを打ち明けたとする。その男からしてみれば100%の善意と優しさで相談に乗っているのだが、端からみれば下心があるのではと邪推されてしまいがちだ。卑猥な姿の生物が「どしたん?話聞こうか?」と語るミームがあるように、女性が男性に弱みを見せるという行為には下心が混入する可能性がある。そうなると友情のレイヤーから恋愛のレイヤーに移行してしまいフラットな立場で見ることが難しくなる。一方でわたなれのように女性コミュニティでの相談なら、悩み相談も友情の延長線上で語ることができる。損得も恋愛感情もないフラットな立場でれな子が共感するからこそヒロインたちは彼女に信頼を寄せることができる。そして悩み事の解決のためれな子が奔走する姿を見て、ヒロインたちは心を打たれる。ここに関しては異性間の恋愛作品と同じであるが、初動が異なるのだ。ここにおいてれな子がノンケであることの重要性が際立ってくる。れな子がレズビアンなら美少女の相談に応じる行為自体に性欲が絡んでしまうが、れな子はノンケなので普通に友情の範疇だ。確かに紗月や紫陽花に欲情することはあるが、あくまでコメディの範囲に収まっていると思う。男だって温泉で巨根を見て感激することがあるだろう(俺はそうなんだけど、みんなもそうだよね?)。脱線したが、れな子は自分が弱い人間だと誰よりも知っているからこそ他人に優しくできるし、自己犠牲的ではなくあくまで自分のために行動しているだけなので人間味もあって読者から共感もされやすい。れな子が特に優れているのは自身を客観視できているということだ。奇行をすればちゃんと脳内で反省するし、常に周囲にどう思われるか考えられる。強いだけの人間なんていないと自身を顧みて分かっているので真唯や紫陽花さんに優しくできる(その際過剰に自分を卑下するのは良くないが)。その上で美少女なので絵面もいいとかなり良質な主人公となっている。

 

4巻を早く読め!

ガチの特報(映画は4巻の内容)

れな子の利他的な行動は彼女の利己的な動機によって引き起こされる。その根底にあるのは「他人に嫌われたくない」という自己保身だ。陽キャになろうとして高校デビューしたのも、普通の高校生になって他人と同化し嫌われないため。他人の相談に乗るのも自分のグループを守り現在の地位を維持するため。彼女が関わる全ての人に優しくするのも同じ理由に起因するが、そのツケが回ってくるのが4巻だ。4巻ではれな子が真唯と紫陽花の二人から告白されどう返事するか悩むというストーリーで、どちらを選んでももう片方が傷つくという、これまでのれな子の行動指針では解決不可能な課題だ。ここでれな子は上記の自身の特性について思案し、誰にでも優しいという長所は自身の弱さの裏返しだったと気づく。人に嫌われたくない、疎外されたくないという一心で普通になろうとしたり八方美人な行動を取ってしまっていた。しかし今回の状況を解決するにはそんな自分を切り捨て成長することが求められる。紆余曲折あって、最終的にれな子は「真唯とも紫陽花とも交際する」という結論に至る。この結果だけ切り取ると理解に苦しむが、このあとに続くれな子の発言が本当に素晴らしい。

「これは真唯には今までさんっざん言ってきて、一度も信じてもらえなかったんだけどさ。わたしって真唯に会う前は、同性同士で付き合うことだって、普通じゃなかったんだよ。それをムリヤリ、変えられちゃったんだ。」

「だからね、だったら、どうしてわたしだけ一対一で付き合うっていう普通に縛られてなきゃいけないのかな、って。今度はそっちがわたしに合わせてほしい」

ガチで作中一の名言だと思う。最初これを見た時爆笑と感動が同時に去来する不思議な現象に見舞われた。ここが名言である理由のひとつが、この発言がれな子の成長を端的に感じられる発言であるからだ。れな子はこれまで自尊心の低さに由来する「他人に嫌われたくない」という思いから普通であろうと努力してきた。イマドキのメイクをしてグループ内で頑張って会話を合わせてきたのも変な奴だと思われてハブられたくないからだ。だが二人に告白されてどちらかを選ぶとなると必ず片方を傷つけることになる。冷静に考えて関わる全員に嫌われないというのは不可能だし、全てを選ぶことができないことを学ぶのが大人になるということでもある。告白に対して双方にokを出すのは優柔不断で幼い軟弱な回答に見えるが、これは「普通になりたい」という過去の自分、ひいては幼い自己保身の精神を捨て去ることができたこと意味する。たとえ普通じゃないと周囲に思われても告白してくれた二人を大切にしたいという真の利他性。これは嫌われないよう誰にでも優しくするというこれまでの行動とは動機が逆転しているという点で明確に異なるものであり、れな子の成長を端的に表した行動である。

これが名言である第二の理由はこの発言がわたなれが百合作品であることの意義となっている点にある。百合ラブコメだから勘違いしそうになるが、そもそも同性愛はマイノリティだ。マイノリティだからこそ百合作品では同性愛に対する葛藤が描かれることが多い。わたなれはラブコメなので雰囲気を明るくするために同性愛は異常なのかというシリアスな葛藤が描かれることはほとんどなく、「なぜ同性愛なのか」という問いより「友情と恋愛の違いとは何か」という問いがテーマとして提示されてきた。わたなれがなぜ普通の異性間のラブコメではなく百合ラブコメなのかというと、先述のように女性主人公のほうがウケがよく読者に好かれやすいという商業的な要請があるが、表立った作品のプロットとしても百合にする意義は求められる。その際に「友情と恋愛の違い」というテーマは十分その条件を満たすものだ。例えば男女関係を描く普通のラブコメの場合、ヒロインの悩み事を解決するというわたなれと同じフォーマットだとしてもこのテーマは描けない。男女関係においてはどうしても性愛が絡んでしまい、純粋な異性間の友情を描くのは難しいからだ。だが同性間なら友情の間に性愛が絡まないのがマジョリティなのだから、友達としてれな子がヒロインの相談に乗っても何も不思議ではない。友情も恋愛感情もどちらも成立しうる関係性となると異性愛より同性愛のほうに軍配が上がるだろう。一般論として男性同士より女性同士の方がスキンシップなどで距離感が近く、友情と恋愛の距離感が近いという意味でホモ作品ではなく百合作品のほうが語りやすいテーマである。

ではなぜ上記の発言がわたなれが百合であることの意義に繋がるかというと、ここがれな子がはじめて同性愛を受け入れるシーンかつ、それをラブコメに昇華したシーンでもあるからだ。これまで作中であまり話題にならなかった「同性愛は異常なのか?」という議論がここで顔を出す。そもそもれな子が真唯からの告白を保留し続けていたのは同性愛が嫌だからというよりは友情と恋愛感情の違いが分からなかったからだ。友達として関係を付き合いたいれな子と恋人になりたい真唯の対立こそがわたなれ序盤のキーになっていた。ネット上でれな子が悪女だなんだと言われるのはれな子が女性間において友情と恋愛を区別できず悪意なく好きだのかわいいだの言ってしまうからだ。このノリは大体ギャグ的に消費されるものの、「友情と恋愛の違い」というテーマに照らすと意外と真面目な話になったりする。れな子は陰キャだった分相手に向ける感情が重く、彼女の価値観では「友情も恋愛感情も相手を大切に思うのは同じ」という思想になり違いが分からない。だから真唯と紫陽花に告白されてれな子が葛藤するのは同性愛の異常性についてではなく「どちらかを選んで二人を傷つけたくない」という選択の葛藤についてだ。そこでこれらの解決のためにシリアス回避のために伏せていた「なぜ同性愛なのか」という問いを引っ張り出してくる。れな子が提示する「同性愛という異常を受け入れるのだから二股という異常も受け入れろ」というアンサー。どう考えても暴論だが、「同性愛の異常性」というシリアスを暴論というコメディの俎上に上げて無効化してしまう手腕が天才すぎる。「なぜ百合なのか?」に対する「二股展開を認めさせるため」というプロットの妙。「二股はダメだろ」に対する「百合も二股も異常なのは同じだろ」という返し。「なぜラブコメなのか?」に対する「ラブコメならこの展開でも笑って許してもらえるだろ」という回答。そしてこの異常行動をするのが普通でいたかったれな子という成長を感じさせる展開。百合の必然性、ラブコメの必然性、れな子が主人公である必然性。すべてを兼ね備えたわたなれ史上最高のムーブが上記の行動なのだ。この4巻の内容をどうしても映像化したかったスタッフ陣の熱い気持ち、俺なら分かります。

 

ヒロイン論争が起こるラブコメは名作

腹パンシーンすこすぎる

コンセプト、シナリオときて同じレベルで並列して挙げられる要素はキャラクターだ。ラブコメと言えば何よりもまず女の子が魅力的かどうかなので。ラブコメにおいて多様な性格や属性のヒロインたちがいるのは当然だが、それらが各自どのような役割を担っていて、そういう理由でストーリー上必要不可欠なのかという問題にきちんと答えている作品はそう多くない。この問いに対しわたなれでは各ヒロインたちが百合的な役割とコメディとしての役割を分担して担うというスタイルを提示する。ざっくり分けると百合のウエイトが高いのが真唯と紫陽花さん、コメディのウエイトが高いのが紗月さんと香穂で、真唯や紗月さんとの絡みは上下間系がある組み合わせであり、逆に紫陽花さんと香穂ちゃんはれな子と対等な立場に分類できる。精神的に成熟しているからアドバイスできること、対等な友達でなければ言えないことがあるので、各ヒロインがストーリー上で唯一無二の役割を果たしている。ここで注意すべきなのは、ウエイトが違うだけでどのキャラクターも百合的な絡みもコメディ的な絡みもできるという点だ。真唯との絡みは全てがレズシーンというわけではなく金持ちネタや性欲ネタでふざけることもあるし、普段ボケとツッコミの応酬をする紗月さんとの絡みで急にいい雰囲気になることもある。これはわたなれの初期コンセプトが「友情と恋愛の違いとは何か?」という問いであることに起因する。友情と恋愛感情の定義は人それぞれなので、その二つの感情に大きな差異はないということが作中で提示されるが、それならば友情と恋愛は同一の線上にあり相互に行き来できるものと言える。だから恋人になったあとも友達としてふざけ合えるし友達同士でもイチャイチャできる。この辺りはスキンシップが激しく友情と恋愛の距離感が近い百合作品の特性を活かしているし、ラブコメの要件を満たしていて感心する。ヒロインそれぞれに協力に属性と役割が付与されているためにカップリングごとにガラリと雰囲気が変わるのも説得力があるし、幅広いオタクの需要に答えることができて上手い。

ちなみに俺はさつれなが一押しだ。紗月さんは典型的なクーデレでありれな子と絡む際は紗月がれな子を弄りれな子がツッコむというのが定番となっている。紗月さんはれな子と比べ容姿も頭脳も精神性も優れているので、基本的にれな子より格上として描かれる。色々文句は言うものの相談すれば何だかんだ適切なアドバイスをくれる紗月さんはれな子にとって何でも腹を割って話せる唯一の存在だ。何でも話せる遠慮の要らない関係というのがさつれなのミソで、腹パンしたりアイアンクローしたりと紗月さんは容赦なく暴力を振るうし、普段敬語のれな子も本気でツッコむときはタメ口になって声を荒げる。百合らしくない暴力を振るい合える関係=男友達チックなノリが俺がラブコメに求めるもので、さつれなは正しく俺の需要を満たしている。これに近いのがバカテスとか俺妹だが、コンプラに厳しい令和でこういう関係が出てくるのはシンプルに嬉しい。ちなみに単なる暴力系ヒロインは全く好きではない。無意味に主人公が一方的に殴られるのではなく、ボケとツッコミとして双方向に鋭利な応酬を求めているのだ。そして百合的には、紗月のことを親友と思っているれな子と彼女のことが密かに気になる紗月という対比がグロテスクで今後に期待。紗月さん一つとっても、腹を割って語れる友人というポジションをコメディと百合で別方向に意味を持たせる手腕はさすがだ。

 

まとめ

長くなったがまとめよう。わたなれはみかみてれん先生の「百合を描きたい、百合を広めたい」という熱いパッションが原動力となっている。百合を広めるためにはまず売れなければならない。そこで百合に馴染みがない層にもリーチするためラブコメ要素を取り入れ、本作を「ガルコメ」というジャンルで売り出した。ラブコメ要素を取り入れることで重くなりがちな百合ジャンルの雰囲気を明るくできるし、百合が好きな層と学園コメディが好きな層を両取りできる。またラブコメにおいて主人公を美少女にする一手は読者の男性キャラに対する嫌悪感を払拭するためのアンサーにもなっている。

ブコメで重視されるのはヒロインの魅力と主人公の魅力だ。ヒロインについては本作がラブコメであることを活かして各々に百合的な側面とコメディ的な側面の両方の役割を与えられている。さらに4人のヒロインが恋人のウエイトが大きい二人と友達のウエイトが大きい二人に分割されており、百合/コメディ、恋愛/友情の上下左右の軸で配置され、各人がキャラクター的属性とストーリー上の必要性の両方を満たしつつ全員が異なる要素を持っている造形になっている。主人公のれな子については美少女かつ陰キャという、メインターゲットであるオタク読者層からの支持を集めやすいよう周到にデザインされていて隙がない。

わたなれのストーリーについては、「友情と恋愛の違いは何か?」という同性愛でなければ描けない問いを提示しつつ、コメディの友情/恋愛の百合というラブコメの必要性を満たすテーマ設定で進んでいく。そしてガルコメというコンセプト、百合ラブコメとしてのストーリー、キャラクターの3つの要素を繋ぐのが甘織れな子の成長物語という縦軸だ。序盤は毎巻ごとにヒロインを攻略していく往来の美少女ノベルゲーム要素を展開し上述のテーマへの回答を探っていくが、ポリアモリーとして生きていく決心をする4巻を境にわたなれは本格的にれな子の成長物語へと舵を切っていく。序盤のギャルゲー的展開は「誰にでも優しい」というれな子の長所を発端としているが、それは「誰にも嫌われたくない」という彼女の弱さの裏返しだった。二人に告白されるという課題に直面することでこのことを自覚したれな子は「誰かに嫌われてもいい」と諦めるのではなく「みんなに好かれるよう両取りする」という選択をする。これは一見、選択ができない彼女の弱さが表出した軟弱な回答に見えるが、明確に彼女の成長を感じさせる行動だ。れな子は卑屈で自己肯定感が低いので仲間外れにされないよう没個性的な普通の人間になろうとしていた。だが普通でいること(二人のうち片方を選ぶこと)より二人とも幸せにするという困難を選んだ。れな子は二股という異常な行動を認めることで、同時に同性愛をも肯定する。二股も同性愛も「普通ではない」という点で並列に並べられるものであり、それらを肯定することは普通になりたかった過去の自分を捨象することだ。普通でいたいという保身より異常と揶揄されても他人のために生きたいという利他性を選択するのは明確に成長と言えるだろう(これまでの保身のための利他性ではなく愛情からくる真の利他性)。そして二股が有り得るということは他ヒロインとの可能性もあるわけで、ハーレムラブコメである意義も同時に達成している。以降れな子は他人の人生に責任を持てるようになることを目標に内面的に更なる成長を目指していく。5巻では他人を切り捨てる覚悟を、6巻7巻では自分の過去のトラウマの克服を。自己肯定感の低さを解消するには無条件に愛されるだけではダメで、自分で自分を認めてあげる必要がある。他人に愛されたいから頑張るのではなく他人に愛されるに足る誇れる自分になりたいから頑張るという逆順の動機は、れな子の善性を象徴する思想であると同時に、陰キャにとって理想の主人公像と言えるだろう。

百合とラブコメの必然性、それらを接続し橋渡しをするキャラクターとストーリーライン。周到に計算された極めてロジカルな構造でありつつ作者の純粋な百合へのパッションが伝わってくる作品、それがわたなれ。映画も楽しみにしています。

2025年5~8月履修コンテンツ シャドバビヨンド/ポケポケ/わたなれアニメetc

 

 

アニメ

わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)

Dr.STONE SCIENCE FUTURE(第2クール)

遊戯王5D's

 

漫画

バクマン。

メイドインアビス14巻

 

ゲーム

GeoGuesser

VALORANT

Shadowverse Worls Beyond

Pokemon TRADING CARD GAME Poket

 

映画

鬼滅の刃 無限城編第一章 猗窩座再来

 

書籍

わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)(1~7巻、SS集、短編集)

 

その他

新婚旅行(ドイツ・スイス・フランス)

 

 

鬼滅の刃 無限城編第一章 猗窩座再来

俺は原作を持ってるのでストーリーは知っているが、それでも見に行ってよかったと胸を張って言える映画。サブスクで映画が見れるようになった現代においてわざわざ2000円払って映画館まで足を運ぶのは、最速で見たいか劇場の環境で見る価値がある作品かのどちらかだ。本作は明確に後者に該当し、資金力を見せつけてくる圧倒的な作画と音響に否応なしにテンションが上がる。この映像美を劇場でリアルタイムで味わえること自体に計り知れない価値がある。

ストーリーについて、漫画30話程度を一本の映画にしているのでどうしても不自然な点は目立つ。単体では繋がりの薄い三つの戦闘を順番に見せられ、一部は決着が次回に持ち越されるという映画単体としては評価に困る構成となっている。ただそれぞれについて見ると、猗窩座も獪岳も単体のエピソードとしては綺麗にまとまっており、俺含めて多くの観客が啜り泣いていた。個人的には獪岳とのエピソードで善逸が語る「幸せの箱」の概念が印象深い。客観的に見れば獪岳は実力があって師弟関係にも恵まれていたが、獪岳は自分が正しく評価されていないと思い不満を募らせている。幸せの箱とは足るを知るということであり、強欲な者、自分本意な者は永遠に幸福にはなれないという概念だ。鬼殺隊の面々はたとえ貧しくても毎日大切な人と暮らすというささやかな幸福を奪われた人達であり、鬼狩りをしているのも自分と同じ悲劇をこれ以上広げないようにするという奉仕の精神からくるものだ。一方鬼はもっと人を食べたい、評価されたい、長生きしたいといった自分本意な欲望で生きている。だから鬼になった獪岳や黒死牟、無惨は満たされず死んでいくし、他人のために人生を捧げた過去を思い出した猗窩座は成仏して消えていった。現代からすると古風とも言えるこの価値観を象徴するのが「幸せの箱」であり、それがひいては鬼滅全体を貫くテーマにもなっている。大正時代という時代設定を抜きにしても、鬼滅には現代だと忘れられがちな価値観や思想が見え隠れしていて、その青臭いテーマ自体が一周回って現代で重宝されストレートな感動を呼ぶのだと思っている。

 

 

シャドバビヨンド

まさかここまでヒットするとは思わなかった。俺はリリースからサ終まで8年間、欠かさず無印シャドバをプレイし律儀に毎回グラマスまで乗せていたそれなりのガチ勢だが、ガワを作り直したところで本質は変わらないのでヒットしないと思っていた。だがシャドバ本来の売りである萌えイラストと快適なUI、カジュアルなゲーム体験を現代基準にアップグレードすれば再ヒットするという運営の見立ては正しかった。気付けばオタクだけでなく職場やXのフォロワーでシャドバが大流行し古参の俺は感激している。

無印からそうであったが、本作は大量に無料カードパックやデッキを配ってくれたりチュートリアルが充実していたりと、とにかくユーザーのニーズにフィットした施策を乱打してくれる印象がある。特に俺が感動したのはランクマッチのシステムだ。DCGにおいて最も快感なのは勝った瞬間であり不快なのは負けた瞬間である。ランクマッチなら勝敗の快不快に加えポイントの上下もあり非常にストレスフルである。多くのDCGではランクを上げていくのに5割程度の勝率が必要とされる。上級者であっても6割強の勝率しか出ないカードゲームというコンテンツにおいてこの仕様は重い。自分の引きの悪さや相手の上振れなど運要素で決まる対戦もあり、そんな理不尽すら無情にもポイントに還元されていくのは辛い体験だ。シャドバビヨンドのランクマッチでは敗北してもポイントが減らない、つまり続けていれば必ず目標とするランクに到達できる仕様となっている。これは一見実力が反映されないシステムに見えるが、それを補う次なる革新的なシステムがグループ制度だ。これはランクとは別に計算される指標で、勝率によって変動する。例えば最高ランクだけどグループ下位であれば「上手くはないけど時間かけてランク上げたんだな」とか、逆にランクは低いが上位グループであれば「低ランクだけど勝率が高い人だから油断できないな」など相手を判別するのに役立つ指標となっている。単にランクマッチの報酬目当てのカジュアル層は負けてもポイントが減らないからでいつかは目標に到達できるし、勝率を気にするガチ勢はグループを気にすればよい。この二つのシステムによりシャドバビヨンドはカジュアル勢・ガチ勢ともに満足できる画期的なゲームになっている。他にも適切な周期で新カードを追加したりイベントを用意したりと定着したユーザーが離れないよう手を尽くしているのが伝わってくる。レッドオーシャンのDCG界の中でも輝きを放つ、今後も楽しみなタイトル。

 

 

ポケポケ

職場の後輩に誘われ付き合いで始めたがいつの間にか俺以外全員引退していた。リリース当初はポケモンIPのパワーで俺らアラサー世代はみんなプレイしていた。DCGとはいえ対戦よりもカード収集に重きが置かれており、カードをアプリ内の額縁に飾って他ユーザーに公開したり、他人のコレクションを閲覧しいいねするインセンティブが与えられていたりと対戦に興味がないユーザーも楽しめる作りになっている。うちの女性職員も「推しのリザードンかっこいい~!」「みてみて!ピカチュウEX当たった!」とキャッキャしていた(でも翌月にはやらなくなっていた)。このように幅広い層にリーチする戦略でリリース当初は覇権の風格を漂わせていたが、熱しやすく冷めやすい大衆はすぐにシャドバやマリオカートといった他のゲームに移っていった。俺は一応毎シーズンマスターランクに乗せるくらいにはプレイしているが、対戦が楽しいかと言われれば微妙なところだ。意外とシビアなゲーム性なのとシャドバと比較すると絵面が地味なので脳汁より冷や汗が出てしまう。また毎月新パックが出るのは飽きが来なくていいことだが、さすがに環境デッキを毎月組むとなると課金しないと苦しいところがありユーザー離れの要因になっている。カードをコレクションして楽しむカジュアル層は飽きて引退し、ランクマッチをやり込むカードオタクはシャドバに移行し明らかに活気がなくなってきているが、ポケポケのこれからはどうなるのか気になるところだ。

 

 

VALORANT

これも職場の後輩との付き合いで始めた。逆張りの俺にしては珍しく、順当に流行っているタイトルをプレイしたが、いまいちのめり込めなかった。俺はFPSが苦手というのもあるが、そもそもゲーム設計が初心者に厳しくないかと思う。一応チュートリアルはあるがガチ初心者の俺から見れば不十分に感じるし、その後はいきなり対人戦に投入される。俺は通話で後輩に教えて貰いながらなんとか基礎は掴んだが、それでもランクマッチで何も役に立てないため動画やブログを見て座学をした。FPS全般に言えるかもしれないが普通にプレイするまでのハードルがかなり高く感じる。まずキーボード操作しかできないのもそうだし、用語やセオリー、最低限の基礎知識が多くカジュアル層には敷居が高い。こんなゲームオタク向けのジャンルを何千万人も遊んでいるという事実が信じられない。世の中意外とゲームオタクだらけなのか?とはいえさすがの覇権タイトル、楽しい場面も存在する。自分が役に立たなかったとはいえチームが勝つと嬉しいし、偶然でも相手をキルするとドーパミンが噴射されるのを感じる。銃で相手を殺すというプリミティブな快感がゲーム自体に内包されているのは長所だろう。普通へのハードルが高くて俺には向かなかったが流行る理由も少しは分かってそれなりに有意義だった。今後も付き合いでならやってもいいと思えるタイトル。

 

 

ジオゲッサー

ゲームはストレス解消や暇つぶしの為にやるのは当然だが、たまには実益のためにゲームをやるかと思いプレイ。このゲームが実益になるかは諸説だが、楽しみながら地理の知識を身につけることができるいいゲームだと思う。でも流行ったのいいことに運営がプレイを有料にしたのはカス。

ジオゲッサーはグーグルマップの特定の地点の画像がどこのものか当てるゲームで単純そうだが奥が深い。まずゲームの発想がよくて、標識や車のナンバーなど普段気にしないポイントで国や地域が判別できるという視点が面白い。ガチ勢のプレイ動画を見ると植生や太陽の位置、道路の様子から数秒で国を特定している様は異様で口角が上がってしまい、くだらないことでも本気でやると面白いというのを地で行っている。このゲームは一人で延々とやっても地理の知識がついて実益になるので時間を無駄にした感がないという点で優れており、対人戦もあってガチ勢にも配慮が行き届いている。マイクラに並ぶ実益ゲームとして罪悪感なく遊べるいい作品。

ちなみに先日新婚旅行でヨーロッパに行ったが、このゲームをやったせいで俺だけ標識やボラードを見て興奮していた。

 

 

わたなれ(アニメ)

あーはいはいテンプレラノベアニメねと冷ややかな目で見始めたら原作を読破し単独記事を書くかと思い至るくらいにはハマってしまった。アニメのわたなれはメディアの違いを理解し存分に長所を活かしていていいと思う。ライトノベルとアニメの違いは色々あるが、ラノベは文字媒体なので動きの表現やキャラクターの可愛さの表現に制限がある一方で文字数や尺の制限がないため心理描写に長けているという利点がある。他方アニメは尺の制限がある代わりに動きや可愛さを視覚情報としてダイレクトに伝えることができる。原作のわたなれはれな子の地の文でその思想や発言に至った経緯が分かるが、アニメでは尺の都合で台詞部分がピックアップされる。そのためアニメではれな子の地の文を極力排し、単純にハイテンポな会話劇の面白さや、やたらいい作画で描かれるキャラクターの可愛さを前面に押し出した構成となっている。地の文がないのでれな子が唐突にヒロインを口説き始めたり突拍子もない不審な挙動をしたりしているが、ギリギリ意味が伝わる程度には原型を残されている。本来の面白さを損なわず展開が不自然にならない限界まで尺を詰め込んでいるのはアニメの構成がすごいと言わざるを得ないが、反動として常に早口&ハイテンポなのはちょっと面白い。地の文を残してスローテンポにするよりも、わたなれの魅力の一つであるキャラクターの可愛さや掛け合いの面白さを前面に押し出した政策は見事に成功したと言ってよいだろう。実際今期アニメの中では話題になっている方だと思うし、原作の売れ行きも以前にも増して好調らしい。そもそも著者としては本作を百合の入門書として書いている節もあるため新規層の開拓に成功して喜んでいるだろう。惜しむらくは区切りの良い原作4巻までアニメで到達しなさそうな点である。みんなで原作とコミックスを買ってわたなれ二期を制作してもらおう!