どりふてぃんぐそうる

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2021春アニメ感想① ダイナゼノン/ゾンサガR/VIVY/バック・アロウ

今期は真面目寄りのアニメがちゃんと面白くてよかった一方で、最初に逆張りして持ち上げてたアニメは順当につまらなくて自分の見る目のなさを実感しました。

 

SSSS.DYNAZENON

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前作に引き続き作画のタッチと女の子のビジュアルが好みでした。

『ダイナゼノン』で一番好きなシーンは序盤で必殺技のビームを撃つときに夢芽ちゃんが「なんとかビーム」と気だるげに言うところです。普通決め技なんだから横文字のカッコいい技名を叫ぶものじゃないですか。これは夢芽ちゃんだけがロボットに興味ないからこう言ったわけじゃなくて、ガウマ以外の味方陣営皆がロボバトルにさほど興味がないんですよね。怪獣との戦いでは街が壊され人も傷つけられるのにも関わらず、彼らは「バイトがあるから」「知人と飲む約束があるから」と平気で戦闘訓練を欠席します。

彼らにとっては人類の命運を左右する戦いよりも目の前にある日常の方が優先順位が高い。「世界の存亡なんて責任取れないよ」と戦いから逃げるのではなく、そもそも戦いどころか日常にすら無関心なんです。

 

蓬たちはそれぞれ悩みを抱えていますが、初期では誰も解決に向けて行動しません。蓬は新しい父親を受け入れられずバイトに精を出すし、夢芽は姉の死を受け入れられず不思議行動を取るし、暦とちせは無職・不登校のモラトリアムに甘んじて自室でダラダラするだけ。蓬たちは日常の中の闘争から逃避する無気力な若者として描かれます。

ちなみにこういった「つまらない日常をどう生きるか問題」に対して「怪獣を作って日常を変える」というソリューションを提示したのが前作の新条アカネです。

 

蓬たちが「日常に馴染めない人たち」であるならば怪獣優生思想の連中は「日常に馴染もうとしない人たち」です。オニジャは殺戮衝動から、ジュウガはガウマへの情景から、ムジナは怪獣を使役することへの依存から、と理由は様々ですが彼らは結託し世界を滅ぼそうとしています。彼らが特徴的なのは他人と適切なコミュニケーションを取る気がないということです。彼らは一緒にゲーセンや温泉に行きはしますが、それぞれが自身の叶えたい願いのために協力しているだけです。本当に協力するのなら最初から全員で怪獣に乗ればいい話じゃないですか。うまくコミュニケーションが取れないから彼らは人間とつるめないしジュウガは拒絶されてもしつこくガウマを追い回すんです。

彼らの実質的なトップであるシズムくんが、最後の戦いで蓬くんの問いかけを完全無視したくだりは怪獣優生思想のコミュ障ぶりが如実に表れてて好きでした。

 

自覚的かどうかという違いこそあれ、コミュ障という点では蓬たちもあまり変わりません。彼らが行動できなかったのは、問題解決のために手を伸ばし他人と意思疎通をはかる気がなく自分の殻に閉じこもっていたためでした。

ダイナゼノン全体を覆うコミュ障感は作品の作りにも表れています。第一に各話サブタイトルが疑問形の形を取っていること。疑問は回答とセットになって初めて会話のキャッチボールが成立しるわけで、一生質問を投げられるだけでは会話になりません。第二に作品全体を通して説明不足感が否めないこと。守るべき3つ目の事柄も、怪獣優生思想が具体的に何なのかも、カノや暦の過去も、ガウマの過去についても丁寧に説明があるわけはなく「察しろよ」というスタンスなのは意図してのことなのかもしれません。(それを差し引いてももう少し説明が欲しかったところではありますが・・・)

 

さて、現実逃避をしてきた蓬たちもガウマと出会って少しずつ変わり始め、まともな人間関係を構築したり現実逃避をやめて日常にコミットしていきます。「自由を失うんじゃなくかけがえのない不自由を手に入れるんだ」という蓬くんの台詞のように、彼らは怪獣使いになれば得られる特権を放棄し平凡な日常を選び取ります。

「仮想のユートピアよりも現実世界を選ぶ」というテーマは何度も擦られてきており、個人的には「ユートピア選んだ方が幸せだろ」と思わなくもないですが、これは僕がひねくれているだけかもしれないので結論自体は何も文句はないです。主要メンバーの多さの割に尺が1クールしかなかったので若干の唐突感があるように感じましたが、作品の評価を大きく落とすものでもないように思います。シズムのように怪獣使いになれば人の生死さえ思うがままになりますが、万能の個人に昇格した先に待っているのは無限の独善性であり、それはそのまま怪獣優生思想のような末路を辿ることを意味します。他人との関係性の構築の称揚という平凡なテーマを、コミュ障感の雰囲気と絡めて表現していた点で僕みたいな陰キャには刺さるアニメでした。よかったです。

 

 

ゾンビランドサガR

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 まず前提としてファンから見るとアイドルとは偶像です。推しと結婚したいと言うオタクも、一部の異常者を除く大多数のファンはアイドルと本当に結婚できるとは考えておらず、自分の生活を豊かに彩る偶像と捉えていると思います。一般人とは決して交わることはない存在という点でアイドルは宗教とあまり差はありません。

アイドルアニメにおいてアイドルと客は明確に区別されていて、観客は冴えないモブキャラで煌びやかにアイドルが舞うステージを見守る存在でしかなく、作中でアイドルと客個人が接触することは稀です。

 

 一方でゾンサガのフランシュシュはご当地アイドルなので観客との距離が近く、彼女たちは画面越しの偶像ではなく近所に住む卑近な人物として描かれています。彼女たちが偶像ではないことはアルバイトをしたり災害時にショッピングモールで寝泊まりし一般人と同じように手伝いをしていたことからも見て取れます。

 

フランシュシュの活動は営業やラジオ出演、ライブなど多岐に渡りますが佐賀県内で完結しており、他県の仕事のオファーを受けるも幸太郎がキャンセルしています。これはご当地アイドルの第一目的が地方の活性化であることに起因しています。フランシュシュは佐賀を救うアイドルであり、人々に忘れられつつある佐賀を取り戻すことが使命なのです。

 

「佐賀を取り戻す」とは言うものの、彼女たちの仕事はアイドル活動を通して佐賀の魅力を発信・アピールすることであり、それを享受するのは佐賀で生活する現地人です。普通のアイドルを観客からの信奉を受ける偶像とするならフランシュシュに代表されるご当地アイドルはファンのバッファーであり、この場合観客のほうにいくらかイニシアチブがあります。このことが顕著なのが2期終盤の災害関係の展開で、被災した状態でフランシュシュがライブをしたところで現実は変わりませんが、彼女たちの頑張る姿を見て観客が鼓舞され、結果として復興に繋がることになります。実際に復興活動をするのはアイドルではなく一般人なわけで、佐賀を取り戻す主体は現地人の方にあります。フランシュシュは神性を有する偶像ではなく、大衆と同じレイヤー上に位置する人間として共に行動する存在です。

順序が逆になりますが、ゾンサガのサブキャラがメインキャラに見劣りしないくらいキャラが濃かったり出番が多いのもそういう理由だと思っています。

 

以上を踏まえると唐突なラストシーンにも一応の説明がつきます。2期で描かれた豪雨災害は土地は破壊されたものの人は無事でした。一般人に重心があるからこそライブで活力を得た彼らが復興を頑張るという図式が成立していました。では課題のレベルをさらに進めるには土地だけでなく人の欠損も必要になるはずです。

UFO(?)の襲来で土地的にも人的にも滅亡の危機にある佐賀をどう救うのか、それが次回作での課題であると勝手に解釈しておきます。この推測が成り立つためには佐賀県民が死滅している必要があるので彼らには死んでいて欲しいと勝手に祈っています。(佐賀県民の方には先回りして謝罪しておきます)

 

 

VIVY

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 ニコニコでやってたのでなんとなく見始めましたが結構面白かったです。

メロディだけのED曲に最終回で歌詞がつく演出は、ベタですが感動しました。

この手の作品ってAIやロボットにも心があるんです的な論調になりがちですが、VIVYは初期から人格が付与されており、心がある前提でストーリーが進んでいくのはよかったです。ただそうなると一つ気になることがあって、それはAIは心があるはずなのに人間に従属する存在として描写されている点です。

AIと人間を分けるものは「使命を持つかどうか」であり、本作において前者は持つ/後者は持たないと区別することができます。「〇〇で人の役に立つ」「〇〇で人を幸せにする」とAIの使命は表現されますが、これには人間が上でAIは人に奉仕するものという支配構造が隠蔽されています。人間はAIに依存し奉仕されるだけの存在なのに自分たちを支配している、この事実に疑問を持ち、人類は生きるに値しないと判断したからアーカイブは人間に反逆したわけですよね。

これに対して、人間とAIを区別するものとして登場するもう一つの要素が「創造性があるかどうか」です。AIであるにも関わらず曲を作ったことがVIVYがアーカイブ特異点として認識された理由です。でもアーカイブが人間になり替わろうとするのって要するに人間に憧れているからじゃないですか?このことは「歌に心を込めるとはどういうことか」へのアンサーが記録(=AI)ではなく記憶や思い出(=人間)を乗せて歌うことであることからも読み取れます。VIVYが心を込めた歌を歌って暴走AIを止めたことは、AIが人間と同等の存在にランクアップしたということであり、そもそもの人間とAIの支配構造は温存されたままのように思えます。せっかく当初からAIが人格を持っていたのに、結局はAIが更なる人間性を獲得し人間と同化するストーリーになったのは思うところがあります。

個人的にはAIが人間に同化するよりは、現状の支配構造を撤廃し共存していく展開になって欲しかったというのが正直なところです。ただこれってアニメ側に落ち度があるというよりは単に僕の誤読の可能性の方が高いです。何だかんだ毎週楽しんで見ていましたしこのエンディングでも十分に面白かったです。

 

 

バック・アロウ

liveindead.hatenablog.com

書きました。武力国家のレッカって大グレン団みたいなもので、武力一辺倒の思想も世界という枠組みの中の一つのイデオロギーでしかないですよね。シモンやカミナが好きなので本作で一番好きなのはゼツなのですが、結局こういう強固なイデオロギーを持つ人間も現代においては通用しないのかもしれません。それはそうと僕は中島かずきさんにコテコテの熱血ものを期待していたのでもう一度そういう作品が見たいところです。