どりふてぃんぐそうる

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バック・アロウの感想 令和のグレンラガン像

バック・アロウの感想

 

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谷口悟朗中島かずきのタッグなので注目度は高かったと思うが、世間的にはいまいち盛り上がらなかったように思う。キャラデザが古いとかそもそもロボアニメが流行らないとか理由は色々と言われているが、ここでは深入りしないし個人的には楽しんで見ていた。

少し見れば分かることだが大まかなストーリーラインはグレンラガンを、大国の対立構造や敵味方の陣営が高速で入れ替わる展開はコードギアスを露骨に意識している。とはいえ中盤以降の展開はかなり中島かずきに引っ張られており、グレンラガンセルフパロディの域に達していると言ってもいい。Twitterで「グレンラガンを期待していたのに想定より盛り上がらなかった」という批判意見を目にしたが、一般的にグレンラガンのような熱血要素とギアスに見られる知略要素は相性が悪いので当然といえば当然である。しかし制作に谷口が加入したことによって、従来の中島作品に新しい視点が導入されているように感じたし、個人的には本作を好意的に解釈しているという話を以下でしたい。

 

何度か言ったことがあるが僕はグレンラガンのファンで、今まで見た中で好きなアニメランキングを作るとすればトップ5に入るくらいには思い入れのある作品だ。最初は地下生活だったシモン一行が、物語を通して成長しスケールアップして最終的に宇宙規模の戦いに発展するインフレぶりは初見で(一人で)大いに盛り上がっていた。

冷静に考えると大グレン団の目的は一貫して抑圧からの解放にあり、どれだけインフレが進もうとこのことは変わらない。当初地上を支配していたロージェノムはさらに上位の存在であるアンチスパイラルに抑圧された存在に過ぎず、アンチスパイラルもスパイラルネメシスというシステムに支配された存在であった。最終的にシモンはアンチスパイラルとの戦いに勝利することによって支配のない自由な世界を創造したが、具体的にどうやってスパイラルネメシスを止めるのかについては言及していない。「無理を通して道理を蹴っ飛ばす」という標語に代表されるように、一行は終始気合と根性で戦いに勝利しており、彼らが戦闘にこそ長けるものの政治能力は皆無である特徴を持つことは作中で問題とされていた通りだ。彼らが所持する課題解決の方法は闘争に勝利することただそれだけであり、それではアンチスパイラルを倒したとしても結局支配構造のトップが入れ替わっただけで、行き過ぎた進化が自身を滅ぼすスパイラルネメシスを根本的に止めたことにはならない。ゆえに最終回でシモンは「俺は穴掘りシモンであって、掘った穴を進むのは俺の仕事じゃない」と仲間のもとを去ることを選んだ。シモンのような問題解決方法は、一元的な戦闘能力の大小によって解決できる諸問題にしか適用できないのだ。

勘違いされたくないので書いておくが別にシモンのことが嫌いなわけではない。シモンやカミナのような大衆を先導するカリスマを持つ人物は魅力的に映るし、実際彼ら抜きには作品が成り立たない。気合じゃ解決できない問題もあるということが言いたいだけです。

 

ここまでグレンラガンの話を長々としてきたがやっとバック・アロウの話に移る。作中において重要なキーワードとして「信念」がある。信念の内容によって機体(ブライハイト)が形作られ、信念が強いほど戦闘力が高い。この設定はグレンラガンの螺旋力を意識していることは明らかである。ところが主人公のアロウは信念がないことがアイデンティティであり、壁の外の故郷に帰るという目的以外は思想がコロコロ変わる。アロウに限った話ではないが、利己的に判断し状況に応じて得になりそうな陣営に鞍替えする様はコードギアスの人物を彷彿とさせる。

アロウの戦闘スタイルも信念に沿ったものとなっており、機体が流動性を持っていたり、自身が仲間の武器に変形したりする。終盤では自身の信念はリンガリンドの意志そのものだと自覚するが、これは唐突なことではなくアロウの主体性のなさから転じているものである。「安心できる住まいが欲しい」「武力で天下統一する」「愛で皆を幸せにする」など多様な信念が乱立するリンガリンドにおいて、大切なのはカリスマ的な戦闘力ではなく周囲の意見を調停しまとめる力である。シモンのように自己の信念を貫いて大衆を先導するのではなく、アロウのようにリベラルな人物像が求められているのだ。

 

以上を踏まえると、一見突飛に思える終盤の展開も一貫性があることが分かる。最終回ではアロウたちが暮らすリンガリンドは、世界そのものである赤子(=御子)の生命維持装置のエネルギーでしかないことが告げられる。過剰な進化 を遂げたリンガリンドの人類は悪性腫瘍とみなされ管理システムによって排除されることとなる。

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 ラスボスの目的が秩序のために人類の進化を抑制することである点で両作品で共通しているが、解答の方向性が真逆を向いている。バック・アロウにおいてラスボスは世界そのものであり、仮にアロウ一行が信念を鍛えて敵を打倒したとしても、アロウらは世界にとってガン細胞でしかないため破滅するしかない。グレンラガン的解決法では彼らは生き残ることができないのだ。よって彼らは御子に対して対話を試み、最終的に御子を母星へと帰す手助けをすることを選んだ。アロウは問題解決に際し戦闘以外に対話という選択肢を保有している点でシモンより解答の射程が長い。

要するに、種の保存のために進化に歯止めをかけざるを得ないという課題に対してシモンは戦闘により支配構造を転換し、アロウは対話による共存の道を選んだ。社会構造が単純な支配構造であればシモンのやり方で解決できるが、現代のような多様なイデオロギーが蔓延る社会においては通用しない。一見グレンラガンとやってることは変わらないように見えて実情は令和的な解決方法を提示した点でバック・アロウは面白かった。