どりふてぃんぐそうる

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ポケモン映画マラソンを完走した感想

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アマプラで無料だったのでミュウツーの逆襲~ココの23作品を1週間で見ました。1作品あたり70分~100分程度なので、スナック感覚で履修できて精神的に楽でした。シリーズの全体の面白さは正直中の下くらいですが、これは映画が悪いというよりは僕が映画のターゲット層から外れたと言う方が近いです。そのため明らかに作風を変えて対象年齢を上げてきた近年の作品は比較的高評価をつけました。以下で感想を書くにあたり、とりあえず最初に個人的なランキングを置いておきます。

僕はアニメや映画の感想を考える際、作品としての面白さ以外だとアクションや作画・演技の要素を軽視し、逆にシナリオやテーマを重要視する傾向にあります。そのため伝説のポケモンがバトルするだけみたいな作品の評価は低めとなっています。中期の作品はタイトルからして伝説のポケモンを複数体並べて見栄えを重視していたので個人的には微妙寄りでした。それと『ミュウツーの逆襲EVOLUTION』もちゃんと見ましたが作画以外ほぼ同じだったのでランキングから除外しています。あれ人間の造詣がやたらとキモくて終始真顔になってましたが小林幸子の歌だけで捲るの結構ズルいですね。これに限らずポケモン映画は大体主題歌が良いので微妙な出来の作品でもクレジットシーンで強引に涙腺を刺激してくるところがあります。

 

個人的ポケモン映画ランク(2022年2月現在)

S:ボルケニオン、ココ

A:ミュウツーエンテイ

B:ケルディオフーパ、みんなの物語

C:ラティオスセレビィダークライゲノセクト、キミにきめた!

D:ジラーチルカリオマナフィシェイミアルセウスゾロアークディアンシー

E:ルギア、デオキシスビクティニ

※同ランクは公開順に並べているだけで左右差はありません。

 

やたらと神格化されている1作目の『ミュウツーの逆襲』、今見ると「そこまで言うほどか?」感はありますがポケモン映画シリーズだと何だかんだ上位に入る出来でした。これは映画自体の面白さというよりは「人間によるポケモンの支配構造」というテーマ性にあって、以降の作品群は大体このテーマで語ることができます。ミュウツーは人間のエゴで生み出されたポケモンであるゆえに、その存在自体が人間によるポケモンの支配構造を体現しています。途中から話がクローンとオリジナルの倫理性の方向にスライドしていきますがミュウツーの根底部分は人間優位社会に対する反体制的な思想にあります。

続く『ルギア爆誕』からは今後頻出する「伝説ポケモンと協力して悪人を倒す」フォーマットが確立します。ポケモン映画って大体がこれと「伝説ポケモン同士の争いを鎮める」という2つの展開に分類することができて、単純にそれだけの話だとC以下に置いています。長いので前者を「和解系」、後者を「鎮静系」と呼ぶことにしますが、和解系の特徴の一つとして旅要素が挙げられます。最初は人間を毛嫌いしていたゲストポケモンがサトシ一行との旅の過程で人間と打ち解けるパターンですね。大体途中で私利私欲のためにポケモンを利用する悪人が出てくるんですが、彼らはポケモンを道具として認識している、すなわちポケモンは人間に従属する存在と考えています。その対比としてポケモンは対等な友達と主張するサトシらが位置しています。

鎮静系の代表は『デオキシス』『ダークライ』『ビクティニ』あたりで、超越的な力を持つポケモン同士の争いを鎮める展開が見られます。彼らは一般ポケモンとは比較にならない力を持ち、時間や空間に干渉する者まで存在しています。彼らは一般ポケモンのような愛玩や友好の対象というよりは人間に干渉できない超越的な力の象徴というほうが近いでしょう。サトシは「ポケモンは友達だ」という考えでそれらもひとまとめにしてしまいます。結局のところ、サトシはポケモンのために命を張れるから対等な存在と言い張ることができますが、それ以外の一般人はやっぱりポケモンに指示してバトルする構図が成立しているわけで、一概にポケモンと人間が対等な関係と言えるわけではありません。ポケモンって基本はモンスターボールに入っていてバトルと食事のときくらいしかボール外に出てきません。ボール開閉の主導権を握っているのは人間であり、モンスターボールは人間によるポケモンの支配の象徴と言うことも可能かもしれません。だからサトシと対等な友達であるピカチュウはボールに入らないわけですね。

BWの途中までは、伝説ポケモンに出会う→旅して絆を深める→伝説ポケモンを狙う悪人を倒す→伝説ポケモンと別れるという和解系の構図が連発されてマンネリ化していましたが、『ケルディオ』くらいから方向性が変わってきます。本作はケルディオが宿敵キュレムを倒そうとサトシに助けを求めるのですが、サトシはアドバイスをする程度で、実際はケルディオが勝手に精神的に成長しキュレムが力を認めるというオチを迎えます。聖剣士キュレムなど主要ポケモンは当然のように人間の言葉を話しケルディオを導きます。それまではサトシ一行が悪人をぶちのめして伝説ポケモンが人間への認識を改めるという展開だったのが、本作では人間は最小限しか干渉せずポケモンポケモンを教化するという展開が見られました。このパターンはそれ以降の作品でも見られ、『ゲノセクト』ではミュウツーゲノセクトを説得する場面がありました。『フーパ』では『ミュウツーの逆襲』で見られた、「ポケモンポケモンを使役する」モチーフが再浮上しました。続く『ボルケニオン』は映画自体が相当面白かったのに加え、根幹にある「サトシとボルケニオンのダブル主人公(バディ)映画」の設定が良かったですね。『ケルディオ』あたりから段階的にポケモンの地位が向上していき、本作ではついに人とポケモンが対等な存在になっています。

こういった近年の「ポケモンの人間化」現象が極限まで達したのが『ココ』で、「ポケモンに育てられた人間」という従来の人とポケモンの立場の逆転現象が発生しています。終盤の「俺は人とポケモンの架け橋になる」という台詞は、人とポケモンの両方の性質を持つココが言うからこそ説得力を持っています。動物・ペットのような人に餌を貰うだけの存在でも超越的なシステムとしての存在でもない、あくまで人間と対等な存在として再定義された存在へとポケモンがなったことでやっと両者の友情が語れるようになりました。

まとめると、サトシが毎回主張するポケモンとの友情もミュウツーの言う人のエゴへの憎悪も「人とポケモンのパワーバランス」というカテゴリーで括ることができます。ミュウツーが葛藤する自身の存在理由は「人がポケモンを支配している」という前提があっての話です。その観点で見ると一連のポケモン映画シリーズは人によるポケモンの支配構造の解体という視点で語ることが可能です。だから「ボルケニオン」「ココ」は僕の中で評価が高いし、逆に『セレビィ』~『マナフィ』くらいの映画はテーマ的に似たり寄ったりなので評価が低いです。まあいつものように自分が深読みして勝手に納得しているだけのような気もしますが、キッズ時代に見ていた時とは違った楽しみ方をしていましたということで終わります。