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【感想】シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

※新・旧シリーズのネタバレを含みます。 

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 ↑サムネ用。エヴァで一番かわいい。

 はじめに。僕はエヴァ歴1週間です。3月8日、Twitterのタイムラインは物々しい雰囲気でした。約9年ぶりに「エヴァ」の新作、それも完結編の映画が公開されたからです。「エヴァ」について、当時の僕は一切知識がなく、ただ過去にオタクたちの間で一大ブームを引き起こしたアニメというくらいの認識でした。オタクの異様な盛り上がりを見て、いい機会なので「アニメ版」「旧劇場版」「新エヴァ3作品」を5日で視聴し、今日最後の「エヴァ」を体験してきました。エヴァが完結までに辿った20年以上の月日は「シン」と切り離せないものであると知り、できればリアルタイムで「エヴァ」というコンテンツを追いかけたかったと後悔しているところです。

 

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 シリーズ完結編である「シン」のキャッチコピーは「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」です。エヴァシリーズはアニメ版ではラスト2話が謎展開で終わり、旧劇では意味深なビターエンドで終わり、新劇「Q」では急に作中時間が飛躍し風呂敷をさらに広げてから次回作まで9年も待たせるというリアルタイムで追っているオタクがキレてもおかしくない仕打ちをしています。そこへきてのこの挑戦的なキャッチコピーは庵野監督の「エヴァからの脱却」という強い意気込みを表明したものでしょう。

 「エヴァからの脱却」は「シン」、そして新劇シリーズでの大きなテーマです。旧シリーズではアニメ版ではラスト2話が丸々シンジや数名の主要人物の心内描写に費やされ、そのまでの伏線を丸投げし最後はシンジが人間がそれぞれ個体として存在する世界を選択したことで周囲から祝福され終わります。その補足として旧劇ではアニメ版でシンジが葛藤している際の現実世界での出来事が描写されます。サードインパクトにより世界の命運はシンジの手に委ねられ、「このまま全人類がLCLとなったまま一つに統一された世界(ユートピア)」「従来のような人間が個体として存在する世界(現実世界)」の究極の選択を迫られます。葛藤の末自己の存在理由を見出したシンジは他者との関係に傷つくこともある現実世界を選択します。選択後のシンジはアスカと二人で横たわっておりアスカの首を絞め始めますが(おそらく自分を最も拒絶していたアスカしか世界にいないことを知り恐怖したから)、アスカがシンジの頬を撫で、涙したシンジが手を緩めるとアスカが「気持ち悪い。」と発言し物語は終わります。冷静に考えて意味が分からない展開です。発言の真相やそもそも人類が復活したのかなどの解説はありません。好意的に見てシンジが自己の存在意義を見つけたということでベターエンドと考えるのが関の山です。考察の余地があるのはいいことですがそれは説明不足と表裏一体であり、この場合後者の意味合いが強いでしょう。一応伏線は回収され物語としては綺麗に纏まったと言えますが、それでも一つ問題が残っていました。その問題を片づけるため、「エヴァ」に綺麗にケリをつけるために「新」シリーズは必要であったと考えられます。

 「旧」シリーズで解決されなかった課題、それはシンジとゲンドウの関係です。二人は親子関係であり同じ組織に所属していながらまともな会話をせず、旧シリーズでは最後まで関係性が改善しないままです。シンジがあんな性格になったのはシンジを捨て、まともなコミュニケーションを取ってこなかったゲンドウにも大きな責任があります。

 シンジは多少なりともゲンドウとコミュニケーションを取ろうとしますが、ゲンドウは一方的に命令したり亡き妻を思うばかりで親子とは思えない異常な接し方をしていました。ゲンドウが目的のために放棄した親子の関係性を解決することは「新シリーズ」の義務の一つでした。

そしてゲンドウは庵野監督ともリンクします。最初は二人のビジュアルが似ているからと僕はネタにしていましたが、考えてみればゲンドウはシンジに「エヴァに乗って戦え」と短期的な命令をするだけでその理由や長期的な目標は伝えません。そして他の人物もやたらとそれっぽい単語を羅列する癖に十分な説明を行わないため作品全体が説明不足のまま進行していきます。よく考えればギリギリ理解できるくらいの情報の提供量のため「考察のしがいがある作品」といえばそれまでですがこのような構造になったのは明らかに庵野監督の意図があったからです。このように二人は説明が不足している点で共通しており、またゲンドウは作品世界を俯瞰的に見る者、庵野監督は作品全体を取り仕切る者という超越者の意味でも二人は共通点があります。

 つまり「新シリーズ」でゲンドウが責任を果たすことは庵野監督のそれにもつながります。庵野監督の責任とは「旧シリーズ」での終わり方、そして完結まで20年以上オタクを待たせたことでしょう。

そう考えると「シン」でゲンドウがラスボスとしてシンジと戦い、親子関係に決着をつけたこと、そして広げた風呂敷を畳み、時間はかかったものの納得するハッピーエンドを提示したという点で「シン」は両者の責任をきちんと果たしており名作だと思います。

※補足1:ゲンドウとシンジの戦いが最終的にエヴァの戦闘ではなく対話で行われたことは「親子関係の清算」という観点から筋が通っていて美しいです。二人の不仲の原因はコミュニケーションの不足であり、それは拳ではなく言語によって解決されるべき問題であるからです。

 

 もう一つの解決すべき課題が主人公であるシンジについてです。「旧シリーズ」においてシンジは最終的に自己の存在意義を見つけ、統一された世界ではなく人間が個体として生きる世界を選びます。シンジの性格上他者との関係で傷つくことのない世界を選んでもよさそうですが、それをせず他者との関係に傷ついてでも日常の世界を生きようとした点で成長したと言えます。ところが選んだ世界は人類のほとんどは滅んだままで、目の前には自分を強く拒絶するアスカしかいない状況に陥ります。お世辞にも幸せな世界とは言えません。旧劇のシンジの選択では何かが足りなかったわけです。ではシンジに足りなかったものは何かというと他者との関係です。旧シリーズでは確かに内向きの自己の実存問題は解決したかもしれませんが、ゲンドウ問題を含む外向きの他者との問題が未解決のままだったのです。

補足2:エヴァシリーズはエヴァが使途と戦うSFアニメなのは間違いありませんが、シンジの心の葛藤も同じくらい大きなウエイトを占めています。シンジは毎度毎度自己の実存や小さな人間関係でウジウジ悩み、それが世界の命運といったマクロな問題と直結している正しくセカイ系のアニメです(そもそもエヴァセカイ系の走りらしい)。最終的にはアニメラスト2話を使って自己の実存について悩み答えを出して終わりというのはある意味エヴァらしい終わり方です。

 「新シリーズ」においても「Q」までシンジのウジウジ癖は変わりません。周囲の大人が説明不足で思いやりにかけるという意味でシンジの境遇は同情しますが、それを抜きにしてもシンジは被害者意識が強いわ思い込みが激しく人の話は聞かないわで排他的な性格は「ガキ」と言われても仕方のないものです。先の問題を解決するためにはシンジは「大人」に成長する必要があるわけです。

補足3:エヴァパイロットは作中での時間経過に関わらず身体的な成長が止まる「エヴァの呪い」は、シンジの精神性が子供のままである比喩だと勝手に推測しています。実際に「シン」ラストでは精神的に成長しエヴァなき世界を実現したシンジは現実世界でも大人になっています。

「シン」でも序盤こそシンジは失語症になるほど落ち込みますが、村での生活を通して他者の優しさや自己の存在理由を再度知る中で精神的に成長します。最も精神的な成長が顕著なシーンはシンジが村を出て自発的に船に乗る意思表明をするシーンです。これまでシンジが決断を迫られるシーンというのは選択式とはいえほとんど命令に近いものでした(エヴァに乗るのは自由だけど乗らないと世界が滅ぶとか)。ところがこのシーンは船に乗れと誰かに言われたわけでも、乗らなかったらすぐに世界が滅ぶというものでもありません。あくまで「自分の意思」でシンジが選んだものです。その後もシンジは自身が起こしたニアサーの責任を問われたりと過去作なら間違いなくウジウジしていたであろうシーンがありますが精神的に大人になったシンジは難なく乗り越えます。

そしてゲンドウをはじめカヲルやアスカ、レイとの関係性を清算する展開に入ります。「自己の実存」から「他者」との関係に論点が進んでいることは旧よりシンジが成長している証拠です。

親子での対話の中でゲンドウは本来孤独を愛しており、シンジと似た者同士であることが明かされ、アナザーインパクトによりシンジの選ばなかった虚構の世界を望んでいることをシンジに伝えます。

補足4:ゲンドウは孤独を好んでいましたが、ユイと出会いそれを失うことで孤独感から絶望するようになります。「NARUTO」において「最初から繋がりがない孤独(ナルト)より繋がりを失う孤独(サスケ)のほうが苦しい」という発言がありますが僕はこれを「サスケ理論」と呼んでおり色んな作品でこの主張は成り立つので頻繁に使っています。

結果的にシンジはゲンドウの計画を止め、再度現実世界を選びます。今回の選択は作中での現実世界を選ぶだけでなく世界を再構築しエヴァなき世界を作るという意味です。

ゲンドウとの対話の結果、シンジはゲンドウの贖罪も引き受けます。「Q」において自身が起こしたニアサーの責任も取れず悩んでいたシンジからするとこの行為はとんでもないことです。「他人の罪を引き受ける」という行為は他人との関係性の中でも最も重いものであるからです。

その後も他の主要メンバーともタイマンで話していきますが、特に印象的なのがアスカとの対話です。アスカとの会話シーンは明らかに旧劇のラストシーンであり、ここでシンジはアスカに感謝の言葉を伝えます。旧の首絞めから考えるとシンジの成長と旧シリーズを超えたことが描写され感動しました。

最終的にシンジはエヴァなき世界を創造し世界が再構築され、身体的にも成長したシンジはマリと共に駆け出し実写パートで終わります。エヴァなき世界とは旧シリーズを完全に脱却した世界であるため隣にいるのは新から登場したマリなのは妥当な結論です。エヴァなき世界とは作品内だけでなく作品外にも適用されます。「シン」をもってエヴァシリーズは正真正銘完結するわけで、何十年もエヴァと向き合ってきたオタクにも別れを告げないといけません。長期にわたって拗れたオタクとの因縁を清算するには作品内で現実世界を出す必要があったわけです。これは「オタクくんは一人でアニメばっか見てないで恋人でも作ってリアルで生きろよw」というネガティブな意味ではなくもっとポジティブに捉えるべきです。

庵野監督もエヴァを追ってきたオタクも、「エヴァ」には並々ならぬ思いがあったはずです。それがエヴァ歴1週間の僕には到底推し量れない20年以上という歳月のはずです。令和のこの日をもって、双方が「エヴァ」の呪縛から解放されたという意味で祝福すべきものなのです。

というわけで「ゲンドウとの対話、他者との交流を通じたシンジの大人への成長」「ハッピーエンドへの昇華による旧シリーズ超え」を描き切り、「エヴァンゲリオン」を完成させたという意味でシンエヴァは名作です。

ありがとう、そしてお疲れ様、庵野監督とエヴァのオタクたち。