どりふてぃんぐそうる

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「SK∞」感想 無秩序な自由を乗り越えるもの

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かなり面白かった。ウマ娘と並んで今期2トップを張れるアニメなのになぜみんな見てないんだ!?

 

 

スケボーは自由の象徴である

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「SK∞(エスケーエイト)」はスケートボードをテーマにしたオリジナルアニメだ。スケボーは趣味としてはあまり一般的ではなく、低俗なものといったイメージがある。本作でもスケボーがダーティな競技であることは徹底して描写されており、ランガたちの戦いの舞台も「S」と呼ばれる非合法のレースにおいて行われる。

主人公の一人であるランガは幼いころから家族ぐるみでスノーボードをしていたが、事故で父親を失ったことを契機にスノボを辞めて沖縄に転居し、もう一人の主人公である暦(レキ)と出会う。レキがスケボーをランガに教えるなかで、スケボーは自由の象徴であることが描かれる。スノボは雪山でしかできず足が固定されているのに対し、スケボーは街中でもどこでもできたり、足が自由であることから多様なトリックを使えたりするなどの特徴が列挙される。

「SK∞」においては型にはまらないこと、すなわち「自由であること」がそのまま強さに繋がる。本作のスケーターは常識を超えた戦法やスタイルを持つ。チェリーはスケートボード自体がAIだし、ジョーは強靭な筋力で壁を蹴り強引にボードの軌道を変える。中でも特異的なのはラスボスであるアダムだ。彼は敢えて相手に向かって突進するラブハッグや、ボードをフルスイングし相手の顔面を撃ち抜く技を使う。明らかに反則だが、Sは非合法でルール無用の競技であるため彼の行動も黙認される。

異常であることが強さであるゆえに、常識人であるレキは中盤で周囲のレベルの高さについていけなくなる。自分より後にスケボーを始めたランガは天賦の才とスノボ経験から急速に実力をつけていき、自身との才能の差を感じたレキはランガと袂を分かつことになる。そんなレキが再起するのはランガがレキの強さを教示したためだ。レキはスケボーの実力ではランガに敵わないが、スケート知識、教育の上手さ、ボードを改造する技術力においては作中トップクラスだ。本作における強さとはレースの速さという直線的な単一の軸ではなく、レースだけに留まらない水平的な強さも含まれることが描かれる。その後レキは11話においてアダムと対戦する。素の速さでは勝てないが、持ち前の技術力と知識を活かし天候に合ったホイールを使用することでアダムに一矢報いることに成功する。自由の象徴であるスケボーは、強さにも複数のベクトルが存在するのだ。

 

 

自由であることの両義性

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ではスケボーがスノボの上位互換ではないかという意見はすぐに否定される。スケボーは自由である反面ケガをしやすい短所があることが指摘されているからだ。地面が路地であれば転べばケガをするし、華麗なトリックは失敗した際のリスクが大きい。ED映像が主要キャラがミスって怪我するNGシーン集であることからもそのことが伺える。自由とはある程度の制約があって成り立つもので、過度な自由はその身を滅ぼす危険があるのだ。このことはアダムを見れば明らかだ。アダムは作中最高レベルのスケーターであるが、先述のように勝利のためなら手段を選ばない。スケボーが自由な遊びであることを免罪符に平気で相手を再起不能に陥れる。アダムは圧倒的な実力からギャラリーに一目置かれこそすれ、共に滑る仲間はおらず孤独な人間として描かれる。規制するもののない真の自由を追求することは混沌を招き人を孤独にする。無秩序が世紀末を誘発することは北斗の拳の世界観をイメージすれば分かりやすいと思う。最強、すなわち最も自由なアダムというキャラクターにより、本作が単に自由を称揚するだけの作品でないことが分かるだろう。

スケボーが低俗な趣味であることは作中でも言及されている。不良のイメージがあること、指導者が少ないこと、ケガをしやすいこと、極めても金にならないことなど、スケートの欠点は多く提示される。それでも「SK∞」のキャラクターたちは自らの意思でスケボーに臨む。その理由は「楽しいから」というたった一つの言葉に集約されることになる。

補足:本作においてスケボーは強制されて行うものではないことは2話のレキの台詞で見て取れる。レキはランガにオーリー(スケボーにおける技)を教える際、「オーリーできなくてもスケボーは楽しめるけど、できたらもっと広い世界が見れるんだぜ」と言う。スケボーにはそれをしない自由も同様に保障されているのだ。その後ランガはよりスケボーを楽しむためにオーリーを会得し実力を増していく。

 

 

「楽しさ」という価値

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 最終話ではアダムとランガによる決勝戦が描かれる。その中で二人は「ゾーン」に入る。ゾーンはスポーツ漫画でよく覚醒の象徴として利用される実在の状態のことで、簡単に言うと邪念を取り払い競技のこと以外見えなくなる状態だ。一般的にゾーンに入った 人間は実力が上がるポジティブなイメージで語られるが、本作においてゾーンとは高速で移動する中周囲に気が回らなくなるネガティブなイメージで語られる。スケボーに集中するあまりランガは「楽しさ」を見失う。崖から転落し死に直面したランガの脳裏には仲間と滑った日々の走馬灯が流れ、彼は正気を取り戻す。スケボーしか見えなくなることで孤独に陥るのはアダムの例で確認した通りだ。スケボーの真の価値とは、自由を盾にダーティな手段を使ってでも勝利することではなく、「楽しむ」こと自体であることが提示される。

ここにおいてスケボーが低俗な趣味であることの意味が浮上することとなる。例えば、好きじゃないのに才能があるから(=プロになれば食っていけるから)野球をしているという人間も多くいるだろう。それと比べスケボーは金にならないことは、Sで勝っても賞金が出ないことからも明らかだ。 スケボーが低俗でマイナス要素が多いということは、それが「楽しさ」のみによって担保されることを強調する。それと同時に、「真に楽しむためには仲間が必要だ」という価値観が浮かび上がる。スケボーは見返りのない趣味であり、卑怯な手段で勝利することに本質的な意味はない。貪欲な勝利への渇望は孤独を誘発する。スケボーにおいてそれを回避するためには「仲間と楽しむ」必要があるのだ。アダムですら真の目的は自身と対等なレベルのプレーヤー(=イヴ)と滑ることであり、孤独の呪縛からの解放を目指していた。イヴが見つからないからこそアダムは楽しさを忘れ狂気に走ったのだ。

そして「仲間と楽しむ」という視点の導入により本作における自由の意味が再定義される。自由とは相手を爆撃したりボードで人を殴ったりしてでも勝利するような無秩序な世界を指すのではなく、様々な個性を持つ人間が共存していく世界を指すのだ。それはスケボーの速さに拘るという観点から視野を広げることであり、レキのような技術屋にも価値が認められ、皆で楽しめるような世界を意味する。

勝利に絶対的な価値を置かないからこそ、見返りがなく楽しさに意味を見出さざるを得ない「スケボー」という低俗な趣味をテーマにする理由が発生するのだ。

 

以上、「仲間と楽しく遊ぶのが最高!」という一見ありきたりな結論をスケボーの必要性や自由の両義性を絡めて上手く導出した点において「SK∞」を高く評価したい。