どりふてぃんぐそうる

Twitter:@fair_mios3

2022年9・10月履修コンテンツ  メイドインアビス/バキバキ童貞/FILM REDetc

 

アニメ

ジョジョの奇妙な冒険ストーンオーシャン(13~24話)

ef - a tale of memories.(全12話)

ef - a tale of melodies.(全12話)

メイドインアビス(全13話)

メイドインアビス烈日の黄金郷(全12話)

リコリス・リコイル(全13話)

ラブライブ!スーパースター!2期(全12話)

Engage Kiss(全13話)

 

ゲーム

 

映画

ONE PIECE FILM RED

メイドインアビス深き魂の黎明

フォレスト・ガンプ

スタンド・バイ・ミー

 

漫画

 

書籍

動物からの倫理学入門

プレップ倫理学

令和版現代麻雀押し引きの教科書

 

YouTube

バキ童ch

 

 

ピックアップ

ONE PIECE FILM RED

ワンピースと思って舐めてたけど思いの外面白かったです。ワンピって市民を虐げる独裁者をルフィがぶっ飛ばすのがセオリーですが、ウタは独裁の仕方が違います。ウタはウタウタの実の能力で人々を夢の世界に閉じ込めるものの根は善人であり、彼らは幸せな夢を見ている点が他の独裁者とは異なります。ただウタの支配下ユートピアが実現されてるとはいえ人間が一つの価値観に支配されている点では彼女は独裁者であり、自由を求めるルフィの思想と対立するんですが、このくだりってエヴァ人類補完計画やん!と思いながら見てました。ユートピアの仮想世界と対立する現実世界という構造はナルトの無限月読などと同じですが、本作の場合画一性と多様性の対立として見るほうが近いのではと思います。ウタは支配の仕方を気にしているの(海軍や海賊のように弱者を踏みつけにする支配は許せないが、人々が夢の世界で生きられる支配は肯定している)に対しルフィは支配や秩序そのものを否定します。原作でカイドウに目指すべき世界について問いかけられた際、「ダチが腹一杯飯を食える世界」と答えたのが彼らしくて、ルフィは別に特定の生き方を称揚せず、最低限の生存権が保障されてさえいればあとは好きにすればいいじゃんという思想です。(独善的な)幸福に生きる生き方を強要するウタはロビンの自殺する自由を保障できませんが、ルフィは特定のイデオロギーを強要しないので問題なく自殺する自由を認めることができます。

ルフィの作る新時代(夢の果てと同じ)とは海軍や海賊など特定の思想や団体が支配する時代ではなくもっとアナーキー(ただし生存権は保障される)な時代………って最近見た考察動画が言ってました。

 

 

メイドインアビス

相当面白くて、ここ最近の作品ではずば抜けています。世界観が抜群に良く、特に上昇負荷の設定が秀逸です。凡人なら下降負荷にして達人探検家じゃないと下層まで潜れないような設定にしているところを、あえて上昇時に負荷がかかるようにすることで安全度外視の狂人なら誰でも深淵への挑戦が可能になっている点が天才的です。探求心の強さが自身の命よりも重いという意味ではリコもボンドルドもワズキャンも同じで、「憧れは止められねえんだ」という本作を代表する台詞がそのままクリティカルに刺さります。

読者の感想で「リコが命を捨ててまで母親を探すために冒険する理由が分からない」という意見が一定数見受けられます。母親探しももちろん理由の一つではありますが、彼女にとって単純にアビスの深淵を見てみたいという好奇心も同じくらい大きく、彼女に共感できるかどうかは作品の世界観の魅力にかかっています。少なくとも僕は冒頭のアビスの設定で引き込まれたので彼女の好奇心に共感できるし、逆にアビスを魅力的に思えず怖いだけの場所と認識する人ならリコには一切共感できないでしょう。

この作品でもう一つ素晴らしい点を挙げるならばそれは緩急のつけ方にあります。今でこそメイドインアビスと言えば可愛い絵柄に反して悲惨な展開になる漫画といった認識が共有されていますが、それを知っていてもなお本作は面白いです。作中のグロ展開って思ったほど多くなくて、基本的に本作は子供たちの冒険譚といった色が濃い作品です。毎回グロ展開やっても緊張感がなく読者も慣れてしまいますが(例:彼岸島)、エッセンスとしてのゴア表現は作品のいいスパイスとなります。楽しい冒険には表裏一体で死の危険が付きまとっているというのが本作の大テーマで、上昇負荷はそれを華麗に表現した秀逸な設定なわけです。街の外に出たことのない子供も歴戦の猛者も、誰でも冒険に出ることはできるけど、一瞬でも気を抜けば死が横たわっている。それでも好奇心のまま赴く価値観を称揚した良い作品です。ちなみにこういう設定である以上生還してしまったら凡作になってしまうので、リコは最後はきっちり死んでほしいです。

 

 

フォレスト・ガンプ

メジャーかつ初心者でも触れそうな映画を探していたところ、アマプラで発見して鑑賞。身体障害と低知能、発達障害を持つガンプがいじめられっ子から大成していくストーリーで、適度にコミカルであまり古臭さを感じず楽しめました。ガンプってアイシールド21で言うところの鉄馬みたいな奴で、一つのことにのめり込むと忠実に鍛錬する特徴があって、まさにこの発達障害の特性によってアメフトだったり卓球だったり漁師だったりと様々な分野で成功を収めます。

ガンプがいじめられっ子から金持ちへと成功していく一方で、ヒロインはどんどん落ちぶれていきます。幼少期こそ恵まれた容姿で学園のマドンナ的ポジションを得ていましたが、大学辺りからおかしくなりストリッパーになったり反政府団体に入ったりドラッグに手を染めたりと転落人生を送ります。最終的にガンプと結ばれるも病死してしまうし、トータルで見ると結構悲惨な生涯でした。結局のところガンプとヒロインを分けた要因って親からの信頼だったような気がします。ガンプはハンディキャップを負っていても母親から愛され信じられていたのに対し、ヒロインは父親に虐待されていました。彼女は正しい愛情を知らないからガンプの好意を素直に受け取れないし、クズ男に捕まって利用されて捨てられます。ガンプはアスペだけど良くも悪くもストレートに感情を伝えることができるので周囲から認められていきます。その根底にあるのは母親からの愛情にあります。もし彼が親からネグレクトされていたら元来の障害から卑屈に育って物語は終わっていたでしょう。本作の名言に「人生はチョコレートの箱のようなもの、開けていないと分からない」という母ガンプの発言があります。一見すると生まれつき障害があっても努力次第でアメリカンドリームを掴めるというポジティブな発言です。ただそれはヒロインのように初期が頂点でそこから転落する可能性と裏表です。結局のところ、正しい努力ができるかどうかは努力では変えようがない親の教育に依存するというサンデルっぽい結論だと感じました。

 

 

令和版現代麻雀押し引きの教科書

雀豪1からレートが上がらなくなったので座学の必要性を感じ購入。以前読んだ「新科学する麻雀」より主観的なものの実戦的な本です。押し引きって押すか引くかの2択じゃなく「微妙に引く」という第3の選択肢があります。これは手が崩れるので現物は捨てないけどスジや19字牌くらいなら切るという中間択を指します。引く度合いをある程度明確に導いた点でこの本は科学する麻雀より優れています(あっちは押すか引くかの2択なので)。また、この本で一番参考になったのが「麻雀はマンガンを多く作るゲーム」という主張です。点数的に最も効率が良いのがマンガンであり、押し引きの基準もそこで線引きして概ね問題ないというのは暗記が少なくて助かります。4翻あればツモ+裏ドラで跳満にランクアップするのでリーチ、それ未満なら引くという方針でそこそこ勝てるようになったので詰まるまでその意見に従うと思います。

一問一答形式なのでページ数の割に軽く読めるので、使い方としては単語帳のように暇なときにペラ見して感覚を掴むイメージでいいと思います。概ね基準を掴んだら「新科学する麻雀」で統計的な裏付けをして雀魂やるスタイルにしたらするすると昇段できたので感謝。

それとこの2冊で思ったんですが麻雀本というジャンルは相当当たり外れが大きいので今後ベストセラー以外を買うことはないと思われます。順張りが正義。

 

 

バキ童ch

パソコンをつけている時間のほとんどはYouTubeを垂れ流しているので今回からYouTubeコーナーを新設しました。基本的にYouTubeって生産性皆無でアニメでも見てる方がまだ有意義なんですが、稀にアタリがあって今月はバキ童貞chが該当しました。

インターネットで多少なりともオタク文化に触れていれば上の画像に見覚えがあるものですが、彼はYouTubeチャンネルを持っています。バキバキ童貞を自称していることからも分かるように、投稿される動画の多くは下ネタ関係で、バキ童ことぐんぴぃに相方の土岡がツッコむスタイルで構成されることが多いです。特筆すべきは童貞を直接バカにはしない方向で笑いを取りに行っている点でしょう。童貞ゆえに歪んだ性知識を披露するぐんぴぃに対し、土岡はある程度の共感を示し、スタッフのガヤで笑いのポイントを示すスタイルを取ることで、メイン視聴者層の童貞を否定せず不快感を与えないようにしています。また、セクシー女優や男優とコラボし正しい性知識を共有する性教育動画としての側面も見逃せません。どちらにせよ周囲に表立って推薦できるチャンネルではありませんが、面白くてためになるチャンネルではあります。

ただこのチャンネルの方向性が2つのジレンマを生んでいます。1つ目は彼らの本職は芸人であるという点です。職業柄両名とも基本的な話術スキルが高くエピソードトークは下ネタ抜きでもかなり面白いです(再生数が多いのも以下リンクの過去回想動画)。しかし本当はテレビに出たいという彼らの願望はチャンネルの方向性と相反しています。下ネタでマネタイズできているアングラなYouTubeを取るか、クリーンなキャラとしてテレビに進出するかの選択を彼らは迫られています。

2つ目のジレンマは、バキ童は本当に童貞で機会があれば童貞を卒業したいと思っているにも関わらず、いざそれを実行してしまうとチャンネルが意義を失い生活が危ぶまれるというジレンマです。それなりに知名度を得た彼はその気になれば彼女の一人や二人作ることができるでしょうが、それは彼のアイデンティティの喪失を意味します。確かに「童貞捨てた」というタイトルで動画を作れば短期的な再生数は稼げるでしょうが、彼に共感していた視聴者層への裏切りで長期的には低迷していくことが予測されます。ぐんぴぃは彼自身、そして相方やスタッフの生活のために童貞であり続けなければならないのです。抑圧され増幅される性欲は認知を歪ませ彼を更なるモンスターに育てます。僕はこれからもそいった方向性でチャンネルを楽しみたいのでぜひ変わらないでいてもらいたいものです。


www.youtube.com

 

2022年7・8月履修コンテンツ ワンナウツ/NEW GAME!/ゼノブレ3etc

友人曰くねねっちはアホ面の癖に作中屈指の天才らしい


この夏はゼノブレをしたり雀魂やマスターデュエルのイベントを走ったりとゲームばかりしていたせいであまりコンテンツ履修ができませんでした。ゲームって終わりがないので知識の蓄積の意味でのコスパは相当悪いんですけど、大きな快楽を得られるのでついついやってしまうんですよね。

 

 

アニメ

リコリス・リコイル(9話まで)

異世界おじさん(7話まで)

ラブライブ!スーパースター!2期(6話まで)

Engage Kiss(9話まで)

 

ゲーム

Xenoblade3

 

漫画

NEW GAME!(全13巻)

ONE OUTS(全20巻)

 

書籍

<私>のメタフィジックス

まんが学術文庫 現象学の理念

まんが学術文庫 純粋理性批判

まんが学術文庫 ツァラトゥストラはかく語りき

 

ピックアップ

リコリス・リコイル

 

 

まんが学術文庫 現象学の理念

図書館を徘徊していて気になったので読みました。この手の本は小学校の頃に図書室であらかた読んだ記憶があるのですが、どうやら数年前から別の出版社で似たようなテーマで出版されているようです。当時は蟹工船カラマーゾフの兄弟など小説の漫画化というテーマでしたが、今回読んだものは哲学書の漫画化です。原作を分かりやすくするためストーリーを新設する大胆な試みが行われていて、内容が薄くなる反面徹底的な読みやすさを誇ります。ツァラトゥストラニヒリズム、超人、永劫回帰といった主要なニーチェ用語の解説に留まるし純粋理性批判は原作と関係ないストーリーが大半を占めています。分かりやすさと内容の密度はトレードオフということは薄々分かっていましたが、YouTubeの解説動画のほうがマシなのではというクオリティで立ち読みで片付ける程度のものでした。

ところが現象学の理念に関しては一連のシリーズで異彩を放っています。まず画力がなさすぎる。ジャンルとしては福本伸行とかそっち系で内容で語るタイプ。またストーリーについても他とは一線を画しています。他作品はストーリーに強引に哲学書の用語をねじ込むスタイルなのに対し現象学の理念では哲学書の解説のためにストーリーがあります。なんなら途中からストーリーを放棄して一生解説と想定問答をやってて笑いました。どうやらこのシリーズは作画担当がシナリオも考えているようなので、正直この作者のもの以外読む必要はなさそうです。家に帰って調べたらこの作者だけは哲学科出身で著作にもそれ関連が多くて納得しました。

 

 

Xenoblade3

liveindead.hatenablog.com

書きました。当時は頭にあることを出力してそれなりに満足していたのですが、僕が言語化できなくてモヤモヤしていた部分を完璧に表現した感想記事を数日後に発見し平伏しました。

souls-seed.blogspot.com

ゼノブレ3とニーチェ、言われてみれば共通点が多くて何で気付かなかったのかと自分の不勉強を呪いましたね。

僕の解釈を付け加えるのであれば、アイオニオンの転生の世界観はニーチェ永劫回帰の思想、ノアの貴族道徳についていけない弱者はヨランやシャナイアのことで、貴族道徳は強者の理論であると批判されることを通してノアらは超人思想に行きつくわけですね。ゼノブレ2が今ここにある世界を楽園であると肯定する物語だとすれば、ゼノブレ3は今の世界を残酷な世界と捉えた上で痛みを伴いながらも不確定な未来を行くことを至上とします。1で未来視を否定し自身で未来を創ることを掲げたのであれば、その未来の良い悪いに関わらず進むべきだという超人思想に帰結するのは納得のいく話です。やってることはよくあるヒューマニズム称揚なんですけど、3作に渡って丁寧に論を進めていく手つきに改めて感動を覚えました。

 

 

ONE OUTS

ジャンププラスでは定期的に過去作の一部無料公開が行われていて、大半の作品は無料公開分以外は読まないんですが、これについては毎話の引きが抜群に上手くて全巻購入してしまいました。

ギャンブル作品の魅力って「いかにルールの穴を突いて相手を嵌めるか」「いかに上手くイカサマするか」「金や命を賭けたスリルをいかに乗り越えるか」辺りに集約されると思っていて、この作者の作品(ライアーゲームしか知らんけど)は1・2個目がスバ抜けています。ワンナウツだと彩川は見るからにギャンブルに弱そうな小悪党で、渡久地が勝つことは分かりきっているにも関わらず毎度毎度どうやって勝つのか分からないという絶妙なラインを突いてきます。

ただ他のギャンブル漫画とワンナウツの決定的な違いは、後者はギャンブル漫画でありながら野球漫画でもあるという点です。麻雀にしろオリジナルゲームにしろ、ギャンブルは頭脳戦であり知略で相手を上回った時点で勝利が確定しますが、野球はそうじゃない。戦略は野球の要素の一つでしかなく、肝心のフィジカルが伴わないと勝利できません。渡久地は盤外戦術を含め最後まで戦略負けすることはありませんでしたが、投球フォームをメタられまくった結果野球スキルの方は終盤で完全に攻略されてしまいます。ゆえに渡久地は中盤以降は選手から監督・経営者業にシフトしていきます。渡久地の本領はあくまで心理戦や頭脳といったギャンブル方向の能力にあるわけで、プレーの方はプロに任せた方が効率がいいわけです。渡久地の人心掌握術で無気力集団のチームを鼓舞し強化することで最終的に渡久地抜きで優勝するというシナリオは、ギャンブル要素の読み合い・心理戦と野球要素のチームプレー・スポ根を上手く融合させたいい展開だと思います。

 

NEW GAME!

りんさんが嫉妬深いガチレズなのがいいですね。りんとコウの百合のくだりは、りん本人は真面目にやってるのに対し読者目線ではガチすぎて引くというギャップがシーン全体をギャグとして成立させています。僕が作中で唯一笑えるギャグがりんのレズ描写なんですけど、こういうギャグで済まされるか危ういくらいの百合コメディ漫画があれば教えてください。

この手のきらら漫画って9割方ギャグシーンなのかと思ってましたが、中盤からどんどんシリアスになり登場人物が全員美少女なだけのお仕事漫画になっていました。明らかなオタク層向けの画風の割にキャラが皆意識高いのが珍しい気がします。きらら系の美少女コンテンツは部活や趣味をフックにコミュニティの関係性を深めていくのがセオリーですが、NEW GAMEのキャラは「いいクリエイターになりたい」という夢が根底にあって、それにコミュニティが付随するという構造になっています。クリエイター志向と美少女コミュニティはある程度は両立しますが、コミュニティ内でコンペして役職を決めたり技術向上のため海外に修行に行くなど、彼女らは仕事のためにコミュニティを一旦脇に置くことを選択します。ただしそれは、仕事上の対立や離別ならコミュニティは崩壊しないという関係性の強固さの裏返しでもあり、きらら美少女コンテンツの文脈にも繋がってきます。ブラックな仕事要素を美少女コミュニティでコーティングしてマイルドにした読みやすい作品でした。(オタクはブラック労働要素に拒否反応を示すため)

 

 

あとはリコリコの千束の口調ってアニメキャラなのに話し言葉でいいねとか異世界おじさんって一貫して認知の歪みをギャグ化してるよねとか書こうとしましたが意外と内容がなかったので放送後に気が向いたら書きます。

【ネタバレあり】ゼノブレイド3の感想 神VS人から人VS人へ

※ネタバレを多く含むので未クリア・今後プレイ予定の方はブラウザバック推奨

※ゼノシリーズはゼノブレイド1と2のみプレイ済み

 

めちゃくちゃ面白くてクリア後にTwitterで感想を検索したら結構叩かれててビビりました。ネガ意見に賛同する部分もありますが、個人的には90点くらいはつけられるゲームだと思います。ムービーが長いとか不要な部分が多くて冗長という意見には無限に頷きますし、設定を回収しきれていないとか敵に魅力がないというのもある程度は同意します。特に多かったのがシナリオの粗についてですが、これについては僕は肯定寄りなので以下で僕の解釈をつらつらと書いていきます。

 

 

ゼノブレイド 神無き世界の創造

ゼノブレイド3を語る上で「1」「2」への言及は避けられません。1では巨大な2体の神の骸の上が人間の暮らす大地であるという世界観の下、巨神のもとで生きる人間と機神のもので生きる機神兵が戦争状態にありました。機神に仲間を惨殺されたシュルクは復讐の旅をする中で全ての元凶が巨神ザンザであることを突き止めます。ザンザは人間のことを自身が永遠に生きるための贄としか認識しておらず、機神はザンザを止めるため巨神界へ進軍し人間を殺していたのです。シュルクはザンザを斬ることで神無き世界を創造し2つの世界に平和が訪れる、というのが本作の大筋です。本作においては「世界そのものが間違っており、神を打倒することで新世界を創造する」というグノーシス主義的思想が根底にあり、この思想は以降の作品にも引き継がれることとなります。

 

ゼノブレイド2 永遠の命と有限の命

ゼノブレイド2で対立構造にあるのは人間とブレイドです。ブレイドはコアクリスタルが破損しない限り再生し、死んでも最終的に世界そのものである巨神獣(アルス)へと変質し、アルスは死ぬとコアクリスタルになり生命を生み出します。人間の寿命は有限であるのに対しブレイドは記憶を失い転生することで実質的に永遠の命を得ています。人間とブレイドの対立はそのまま寿命の有限性と永遠性の対立でもあります。

ゼノブレイド2における神はブレイドシステムを構築し長い時間をかけ人間を正しい進化へ導こうとしていましたが、世界に絶望し途中でそれを放棄しました。特殊なブレイドの一人でラスボスであるメツは神を殺した後世界を滅ぼそうとしますが、主人公レックスにより阻止されます。ただ神を殺し、結果的に世界を再構築した結末は1と共通しています。

 

ゼノブレイド3 過去2作のテーマの掘り返し

ゼノブレイド3ではケヴェスとアグヌスという二つの国家が戦争状態にあり対立していますが、実はメビウスという組織が裏で世界を支配していることが明らかになり、本編では人間とメビウスの戦いが繰り広げられます。本作では過去2作を繋ぐと謳っているだけあって1と2の設定がそのまま登場します。フィールドマップには過去作の地形がそのまま採用されていますし、両国は人種やメカデザインなどそれぞれ1と2をモチーフにしています。それは設定にも反映されていて、上位存在が人間を生み出し裏で人間を支配している点は1と、人間は10年の寿命しか持たず死後は記憶を失い転生する点は2と共通しています。3では1,2で語られてきたモチーフを再度語っていくことになります。

世界観について補足すると、ゼノブレ3世界の人間は寿命の最大値が10年なだけで、何もしないと数年で寿命を迎えます。敵国の兵士の命を狩ることで延命することができるため、生きるためにケヴェスとアグヌスは戦争を強いられています。彼らには生殖という概念はなく、ゆりかごと呼ばれる装置から10歳の容姿で生まれ、成人までの10年間は戦うために生きることになります。この世界では人間の殆どは兵士のため、戦いにしか価値判断の基準がありません。このことは後に問題視され議論されることになります。

 

メビウス 神性と悪役としての魅力のなさについて

本作の感想を読んでいると、分かりやすい減点ポイントとしてヴィランであるメビウスの魅力のなさが挙げられています。彼らはA~Zのコードネームのメンバーで構成される組織で、人間を裏から操っていることが序盤で明かされます。初期の国家間闘争という人間同士の対立から、人間対メビウスという図式に対立構造が変形し物語は進行していきます。メビウスは洗脳や瞬間移動など超常的な能力を持っている割に、多くは人間の虐殺や精神的な葛藤を楽しむなどやたらと小物っぽい行動をしています。過去作の魅力的な悪役であるシンやメツといったイーラの面々は世界を変革するという大義があり、メンバー間の仲も良く行動の全てに意味がありました。それと比較するとメビウスはすぐ仲間割れするし無意味な殺生をし大義もないという正真正銘の小物で、全く魅力的ではありません。ラスボスのゼットには現状の世界の維持という目的はあるものの、人間に戦争をさせていた理由を「面白いから」と断言してしまう点からやはり小物感が漂います。メビウスは人間の負の感情の集合体という設定が終盤で明かされるのですが、それなら戦争をさせた方が効率的に負の感情が集まるからとでも説明してくれれば理屈が通るものを、「面白いから」という個人的な感情が先行する辺りラスボスの風格もクソもありません。

小物だと散々叩かれているメビウスですが、ある程度擁護の余地はあります。それはメビウスが人間の負の感情という概念存在であるという点です。過去作のボスにはある程度の神性がありました。1のザンザは世界を構築し大地を創造し、2のクラウスも同様にブレイドシステムを構築しました。そもそも現実世界の科学者クラウスが実験に失敗し生まれたのが1・2の世界で、そのクラウスの肉体が半分ずつに分かれたのが1・2の神です。世界そのものを創造したこと、メタ次元の存在であるという点で彼らは神性を有しています。一方でメビウスは世界を改変する能力はあっても神のように世界を創造するほどの能力はなく、人間から転生した者が大半である点で超越的な存在でもありません。メビウスは人間の負の感情の集合体で、人間より俗物的な神性のない存在であることを鑑みれば、彼らが全く魅力のない小物でも何の問題もありません。

 

ポスト・神無き世界 強者の理論について

メビウスは未来への不安から現在の時間軸を永遠に繰り返すことを目的としています。彼らはビジョンで思い通りの未来を描く1のザンザ、理想の未来を描くことを放棄した2のクラウス、世界を破壊しようとしたメツのいずれとも違う思想を持っています。一方ノアら主人公一行は人間の可能性を信じ彼らを打倒します。過去・現在と未来との思想上の対立はフィクションにおいて珍しいことではありませんが、今作の凄い点はノアの説教に対するメビウスの反論にあります。現在の戦争しか選択肢のない世界を破壊し、誰もが自由に未来を選択できるような世界にしようと主張するノアに対し、メビウスはこう反論します。「自由な世界とは未来を選択できる強者の理論だ。力のない弱者は選択することなどできない。それならば今のように永遠に転生する世界ならいつか強者になれるのではないか(意訳)」。これは安易な人間賛歌へのカウンターとしてかなりクリティカルな指摘です。選択の自由があるということと自由に未来を選択することができるということはイコールではありません。神無き世界とは絶対的な価値観が存在しない世界で、それにより今より不幸になる人間が存在する可能性をシュルクらは見落としています。

これに対しノアらは「だからといって戦争続きで戦闘力しか価値尺度の基準がない今の世界は間違っているからぶっ壊す(意訳)」と答えます。まあそれはその通りですし強者の理論を盾にして愉悦のために今の世界を作るメビウスの主張は論理が飛躍しています。

強者の理論のカウンターとして引き合いに出される人物がシャナイアとヨランです。彼女らは戦闘力において劣等感を抱えていることで闇堕ちして主人公一行に立ち塞がります。ノアらは戦闘以外にも様々な価値観のある世界を主張し説得し、彼女らは最終的に納得して成仏していきましたが、冷静に考えると少し引っ掛かります。シャナイアは美術の才能があったので戦闘以外の価値観が生まれることで救済されますがヨランは違います。ヨランは回想で語られるように、何度生まれ変わっても弱い上に彼自身強いヒーローに憧れています。彼は戦闘力で承認欲求が満たされないと満足できないという点でノアの理論では説得できません。ところがヨランは人間時代に死んで皆を助けたからノアらより強い!という謎理論で成仏していきました。問題提起はよかったものの解答は雑だったのでここは結構減点ポイントでした。

 

永遠性の否定 継承とおくりびと

先述のようにメビウスは永遠を望み転生を繰り返す人類を創造し、その感情エネルギーを吸収し永遠の寿命を得ました。彼らは不確定な未来を恐れるという点をザンザと共通していますね。ノアらはそれを否定し生命の有限性の尊さを説きました。永遠性の否定というモチーフはゼノブレ2で見た通りです。ゼノブレ2では永遠の寿命を持つブレイドであるシンは愛する人間と永遠を過ごせないこと、過ごした記憶を失うことを悲観し世界の滅亡を望みました。僕はフィクションにありがちな永遠のユートピアを支持しますが、少なくともゼノブレシリーズにおいては永遠の世界は否定されべきもので、不確定だけど自由な未来こそが称揚されています。

3においてシン的ポジションにいるのがエヌです。エヌは(厳密には違いますが)ノアの前世であり、幾度かの転生によりヒロインのミオを何度も喪失したことで絶望し、メビウスとなりミオを失わず永遠に共に過ごすことを目的とします。この辺り世界の破壊を目的としたシンとは対称的ですね。ノア曰く、永遠とは現状維持、つまり未来をより良いものに変えようとする意志がない状態です。この思想のもとエヌは倒されることになるのですが、実はノアもミオとの永遠を望んでいたことが6章で明らかになります。二人の相違点はエヌは無限の時間をミオと過ごしたいと思っていたのに対し、ノアは寿命の範囲内でミオといたいと思っていた点にあります。そしてここから「継承」というゼノブレイド2から続くテーマが浮かび上がります。

そして本作における継承のモチーフこそおくりびとです。作中でおくるという行為は笛の音で死体を弔うことを指します。これはメビウスについて知る前からノアらが行っていた行為で、彼らの世界では死が身近なものであったからこそ弔事が発展しました。弔うことそれ自体が死者と生きた存在がいて初めて成立する行為なので、寿命が有限である人間特有の行為と言えます。作中において「おくる」ことは罪悪感や喪失感の緩和のためにあると言及されますが、ここでは命を軽視し弄んできたメビウスと対比されています。ゼノ3世界の人間は生殖行為を行うことができないので物理的に遺伝子を継承する術がありません。そのため弔事で意思の継承を行うわけですね。中盤以降想いだの未来だの抽象的なフレーズを乱発していたのもこの世界観を下敷きにしているわけです(それにしても多様しすぎですが)。

ではなぜ永遠を望むメビウスは否定され継承を重視するノアが勝利するかというと、ザンザしかりメビウスしかり、ある単一の価値観が支配する状況が続くと進化の可能性が閉ざされるから、というのがゼノブレイドシリーズで一貫している主張だからです。そもそも人間は誰しも美味いものが食べたいとか、金持ちになりたいといった進化への欲望を持っています。シリーズにおいて進化や発展は無条件で称揚される価値観であるという前提があるのでそれを阻害するメビウスは敗北しなければなりません(この進化への無条件の肯定に待ったをかけるのが先述の弱者の理論のくだりなんですけど投げっぱなしにされています)。仮にメビウスを打倒してノアが新たな神になった場合、それは彼らと同じで神という単一の価値観による支配が再開するだけなので、特定の支配者は存在してはならず民主主義的に世界が運用されるべきで、人間も死とそれに伴う意思の継承により価値観を流動させる必要があるわけです。さっきのエヌとノアの話でいくと文字通り永遠にミオと共にあろうとしたエヌは進化を否定しているからゼノブレでは敗北する運命にあります。ノアもミオと共にありたいという思いはエヌと同じですが、寿命の範囲で過ごせたらよく、死んだときに人生を振り返って満足できればそれでいいんですね。

 

結局ゼノブレ3って必要なの?

本作の感想でそこそこ書かれていたのがゼノブレ3不要論です。まあ確かに脚本は冗長で分かりにくいし投げっぱなしの伏線もあるし設定だけ1・2から引っ張ってきて活かしきれていないという意見も分かります。僕個人の意見としては必要とは言わないまでも不要と掃き捨てるレベルでもないのでここで擁護しておきます。まあ僕はシリーズのファンでかなりバイアスがかかっているので擁護するだけで、ニュートラルな立場だったら文句つけてる可能性もあります。

 

www.nintendo.co.jp

これは任天堂の公式が出してる開発者へのインタビュー記事なんですが、ゼノというタイトルにもあるようにゼノブレイドシリーズは異質なもの同士の関わり合いをテーマにしています。1であれば巨神界の人間と機神界のマシーナ、2なら人間とブレイド、3であればケヴェスとアグヌスといった、最初は相反していた二つの勢力がシナリオを通して和解し、新しい世界を作っていくという方向性が一貫しています。

そして各シリーズにおいて1・2は人間と神、3は人間とメビウスというようにレイヤーが一つ上の対立構造も設定されています。繰り返しになりますが1では神は悪の思想を持つ敵であり、異種族が結束して神を殺すことで新世界を構築しました。2では神は悪い奴ではないのですが進化を諦めてしまっていたためレックス一行と和解し消滅し、ラスボスはブレイドのメツでした。3ではそもそも神は存在せず、メビウスは人間の負の感情の集合体です。よくよく考えると神→ブレイド→人間(の感情)とラスボスのスケールはシリーズを追うごとに縮小しているんですよね。これこそが3の必要性に繋がってくると僕は思っています。つまり3は1・2の積み残した論点に応えるために必要があったのです。

説明不足なのでもう少し掘り下げます。1のラストで神無き世界をシュルクが掲げたはいいのですが、特定の支配者がいない世界をどう統治するかという課題には触れられませんでした。次の2では神が死んだあと人間とブレイドの対立になりますが、レックスは「それは俺じゃない誰かだ」と継承を匂わせる発言をした後メツを倒し、神のご都合でヒロインが蘇生しました。過去作は神を倒したり神のご都合でハッピーエンドになっただけで、神が介在しない人間だけの世界の運用については語られなかった。なので3の適役は神性のない(魅力のない)メビウスでないといけないし、バカの一つ覚えみたいに未来を称揚する主人公一行らと真逆の思想を持つ必要があったのです(もしメビウスが神に等しい存在なら2つの世界の衝突を止められたはずなので、彼らは超人的な能力は持つものの神とまではいかない存在です)。人間だけで世界を運用しようとすれば様々な衝突があります。メビウスを倒すことは、人間の正負の感情を調停し、人間の力だけで世界を統治することとイコールです。いい未来も悪い未来もあることを考慮した上で、それでも支配下の世界(自由のない世界)よりも選択の自由がある世界を望むのがノアらの最終的な主張です。ラストで主人公一行が離れ離れになるのが納得いかないという意見にも、同じ理由で反論ができます。これまでのように都合のいいハッピーエンドを受け入れてしまうと、メビウスの存在を否定することになるわけです。あくまでも自由や未来の両義性を踏まえた上で、それでも進歩や進化を称揚するところにシリーズの美学があるわけですね。過去作で自由・未来・進歩のポジティブな部分だけを抽出した歪みを清算したのがゼノブレイド3という作品であると僕は解釈しました。

補足:ラストでノアがメビウスを斬った魔剣を海に捨てるシーンはかなり好きです。あの儀式をもってノアは次代の神の座を放棄して一般人になりました。これからの時代は特定の武力ではなく人民みんなの政治により世界が運用されることを示唆した象徴的なシーンですね。

 

その他シナリオ以外の感想

長々と語ってきましたが3はシナリオ全体としては80点くらいで、1・2の方が好きです。印象的なのは6話冒頭でミオを失ったノアをエヌが煽るシーンで、そこだけはムービーを何度も見返すくらい好きです。あとシナリオ本編では説明不足だった要素もサブクエストである程度補完されているので、やりこんだ人とそうでない人で結構シナリオの感想が変わるとは思います。

その他の要素:キャラや戦闘、マップ、音楽などは過去作に並んで良かったです。ただ1の生物の身体がワールドマップという独特さや、2のホムヒカのように露骨にオタクウケを狙ったキャラデザのような尖った部分はなく、ゼノブレの平均点といった感じ。僕はオタクなのでもっと媚びたデザインのほうが嬉しかったです。

ボリュームに関しては寄り道してクリアまで80時間くらいで、やりこみ要素全部終わらせたら100時間程度と相変わらず大盛りです。アニメや漫画と比較したゲームの利点として、ボリュームに際限がないのでキャラクターのバックボーンを描写しやすいというのがあります。ボリュームが多いほどキャラクターに愛着が湧くしロールプレイが捗ります。多種族との交流を謳う本シリーズにおいて、ボリュームが多いということはすなわち世界の情勢に耳を傾け共に世界を冒険し没入感を高めることに繋がります。プレイの際は是非寄り道をしながら旅することをお勧めします。

まとめるとゼノブレイド3は90点くらいの評価のゲームで全然人にお勧めできる作品だと思います(ちなみに1・2は別ベクトルで120点くらいあります)。

 

2022年5・6月履修コンテンツ スパファミ/虹ヶ咲2期/FALL GUYS/恋は光etc

各コンテンツの表紙部分、いちいち画像検索して貼り付けるよりAmazonのリンクをペタペタ貼る方が楽だし調べやすいことに気付いたので今後はサムネ以外この方式でいきそうです。

 

 

アニメ

SPY×FAMILY(全12話)

パリピ孔明(全12話)

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会2期(全12話)

ハイキュー!!(全25話)

ハイキュー!!セカンドシーズン(全25話)

ハイキュー!!烏野高校VS白鳥沢学園高校(全10話)

ハイキュー!!TO THE TOP(全25話)

 

映画

シン・ウルトラマン

 

ゲーム

FALL GUYS

 

漫画

恋は光(全7巻)

 

書籍

物語消費論

新科学する麻雀

 

 

ピックアップ

SPY×FAMILY

つまらなくはないですが「流行るほどか?」と疑問視するくらいのレベルです。ただこれはコンテンツが流行る条件が「面白いから」から「万人受けするから」に変化してきているのが原因だと思っています。オタクによるコンテンツの消費の仕方が「考察して作品を咀嚼する」ものから「SNSで他のオタクと共有する」ものに移行している昨今、誰にでも分かりやすいこと、話題にしやすい要素があること、メディアのプッシュを受けて広く周知されていることなどが流行の条件とされています。そう考えるとスパイファミリーはこれらの諸要素を完璧に満たしています。大衆受けするテンプレートな設定とシナリオ、アーニャの可愛さや有名歌手による楽曲などフックとして会話で共有できる要素、集英社によるゴリ押しとまさに流行るべくして流行った作品と言えます。職場の女共が「ロイドさんイケメン~♡」と純粋に楽しんでいる一方、ブログで捻くれたこと書いてる俺との落差で見るほど死にたくなってくる作品でした。まあ何だかんだ言って二期も見るんですが。

 

 

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会2期

昔から「ラブライブは仲間集めが一番面白い」という意見がありましたが、それを反映してか2期になっても仲間集めをしていました。確かに面白かったしギスギスすることもなく平和なシリーズではありましたが、僕はラブライブシリーズではシリアスシーンも好むタイプなのでこういう方向に舵を切ってしまったのは残念でもあります。内的にも外的にも対立がなく仲良しこよしの平和な世界は昨今の需要に合わせたスタイルかもしれませんが、それは目指すべき明確な目標も、それに伴う葛藤もない温い関係性の裏返しでもあります。ラブライブ!に出場しないという選択はその傾向の最たるもので、「メンバーがやりたいことをやる方針だから出ない」と言えば聞こえはいいですがそれって適当に言い訳作って競争を避けているだけじゃね?と思ってしまうわけです。

オンリーワンを目指すことの弊害は脚本にも表れていて、終始スケールの小ささを感じてしまいました。過去作ではラブライブで優勝することで廃校を阻止するという大目標がありましたが、本作はオンリーワン方針の結果侑はコンクールに出場するかどうか、歩夢は2週間海外渡航するかどうかという割としょうもないことで悩んでいます。虹ヶ咲メンバーは加入時点で目指すアイドル像になっており、交流会しかやることがないという脚本の苦悩が透けて見えます。

オンリーワン方針は外部との闘争を排除し各キャラの自己実現にフォーカスするものの、加入時点でそれは完了しており、尺も短い上にただでさえ主要キャラが多いため大半のキャラは加入回しか出番がなく、以降は各話で「そのキャラの特性上言いそうなことやりそうなこと」を発信するだけのポジションになっていた気がします。

全シリーズきちんと見ているし原理主義者でもないですが、無印の昭和スポコン要素が好きだった身としては虹ヶ咲の平成のゆとりのノリにイマイチ着いていけていません。新作で令和っぽくポリコレに配慮してデブやら黒人やらが出てきたらさすがに見るの辞めてしまいそうです。

それから、ミアちゃんの楽曲は相当よかったので興味ない人も視聴してみてください。

www.youtube.com

 

 

FALL GUYS

2020年のリリース当初から継続してプレイしていますが、6月に無料化されて人口が増えたのでこのタイミングで書いておきます。僕がこのゲームを続けている理由の一因はずばり「勝てるから」です。

一般的な対戦ゲームは環境の変化があり、都度練習したり環境を理解しないと継続して勝つことは難しいです。僕がやっているゲームで例えるとシャドバや遊戯王のようなカードゲームは顕著で、特定のデッキが流行るとその対策デッキが台頭します。するとさらにその対策デッキが流行り・・・とパックは追加されないのに日々強いデッキが変化するわけです。俗にいう環境が回るというやつですね。これに加えて運営からの特定のカードの弱体化や新パックの追加など目まぐるしく環境は移り変わり、継続的に追っているプレイヤーでも勝てる時期勝てない時期があるわけです。

ところがガイズには競技ゲームにありがちな対戦環境の変化がほとんどありません。これは全員が使えるキャラクターが統一されており、各自のプレイングスキルでしか差が出ないゲームだからです。ポップな絵面から運ゲーと揶揄されがちですがガイズは明らかに実力ゲーで、初心者が上級者に長期的に勝つのは不可能です。確かに定期的にステージの追加こそあれ、一度プレイヤースキルを磨いてしまえばそれが腐って使えなくなることはなく、ビギナー相手にはいつでも無双できます。そういう意味では継続的にプレイする必要すらなくかなりコスパの良いゲームで、精神安定的にも今後もプレイし続けるゲームになりそうです。

 

 

恋は光

 

ジャンプラで数話分無料公開されて読みましたが、面白くて全巻買ってしまいました。純粋な恋愛モノはあまり馴染みがないですが本作はかなり独特な作品だと感じました。というのも登場人物全員がとことん理性的なんですよね。この手の漫画にありがちな暴力女や唐突に感情的になってキレる人間がいません。そもそも本作の趣旨が「恋とは何か?」を説明することである点からも言語化への気合の入り方が違います。

例えば誰かを好きになるという展開を例に挙げます。普通の恋愛モノなら「冴えないやつだったけど私を助けてくれたから」とか特定のイベントがあって急に距離が縮まるとかいう理由付けがされるでしょう。一方、本作はそういった劇的な展開はなくとにかく地味です。彼・彼女のどこに好意を持つか分析して恋愛的な好きなのか友情的な好きなのか判別します。そもそも恋が何か分からない状態でスタートするので急に頬を赤らめたり発情せず淡々としている辺り徹底しています。特に良いのが終盤でヒロインの一人である北代からの告白への返答シーンです。詳細は省きますが主人公は「〇〇が好きだから」ではなく「北代と付き合えない理由」を長文で説明し始めます。普通なら複数ヒロインの中から一人を選ぶ、という見方になりがちですが、あくまでも特定の一人一人に注視する姿勢は残酷ながらも高評価です。最終的は冒頭の「恋とは何か」についてまで言語化して終わるんですが、作品を通して論文発表を見せられたような、恋愛モノでまず感じないであろう感情になります。

めんどくさい言語化大好きオタクに刺さる内容で、全7巻と短めなので結構お勧めできる漫画でした。

 

 

新科学する麻雀

麻雀を始めて約1年経ち、雀魂の豪1で頭打ちになったので書籍に手を出しました。麻雀本は相当種類が多く、善し悪しがまるで分らないので「理論的である」「専門的すぎない」「読みやすい」ことに絞って探した結果購入したのがこれです。麻雀プレーヤーの打ち方はオカルト派とデータ派の2種類がいるらしく、オンライン麻雀ゲーム普及で若い世代ほど後者に寄っていくそうです。当然僕も後者なので本書は非常にマッチしました。例えば「何巡目で、どういう待ちで、何点以上のときにリーチしたほうが期待値が高いか」「一件リーチ下でどういう状況でなら追っ掛けリーチしたほうが得か」など状況に応じた行動の指針を期待値で示してくれるので安心感があります。仮に特定の状況でこの本通りに打って裏目に出たとしても、長期的には確率が収束し成績は伸びていくはずです。また引用事例と全く同じ状況になることはそうそうないし、覚えるのも大変なので大まかな状況判断の基準を覚えるだけでも参考価値があります。「リーチは愚形でも掛け徳だな」「n巡目以降でリーチ掛けられたら降りよう」など感覚では理解していたこともデータでの裏付けが取れていれば安心して打つことができます。重要度別に項目分けしてるので要点だけ流し見して暗記するだけでも効果があるのが助かります。今のところ麻雀に余暇リソースをオールインする気はないので統計的なデータを効率的に覚えて上達したい僕にジャストフィットした一冊でした。

 

2022年3月・4月履修コンテンツ スローループ/十三機兵防衛圏/ドラえもん映画etc

春アニメマジで見るものないんですけどオタク卒業でいいですか?

 

 

アニメ

鬼滅の刃遊郭編(全11話)

・プリコネ2期(全12話)

・スローループ(全12話)

・その着せ替え人形は恋をする(全12話)

遊戯王SEVENS(全92話)

ルパン三世パート6(全24話)

 

映画

ドラえもんシリーズ:のび太の恐竜~新恐竜まで(40本)

 

ゲーム

星のカービィディスカバリー

十三機兵防衛圏

 

漫画

ハイキュー!!(全45巻)

 

書籍

現代思想入門

映画を早送りで観る人たち

 

 

ピックアップ

スローループ


絵柄が好みだったので神アニメです。本作はきらら系アニメにしては珍しく家族関係にスポットを当てています。メインヒロイン二人はそれぞれ父と母を亡くしており、未亡人となった母と父が再婚することでヒロインズが義姉妹になるところから物語が始まります。きらら系にも色々ジャンルがありますが、ほとんどは女だけのコミュニティ(クラスメイトとか部活とか)内の関係性を描写するのに対し、スローループは学校生活の描写は少なく、家族を軸にした交友関係が展開されていきます。萌えキャラのみの空間を作るため意図的に親族を排除していた従来のきらら系と逆のアプローチを取り、ヒロインの関係性を深めるエッセンスとして家庭環境を取り上げるのは面白かったです。

まあ中盤からは萌えキャラの遊びに親とキッズが同行するだけの普通のきらら系アニメになった感は否めませんが、発想と絵柄だけでお釣りが来るので今期では一番楽しみに見ていました。

 

 

映画ドラえもんシリーズ

3月はディズニー映画を見るつもでしたがアマプラに追加されてたので予定を変更しました。

幼少期だと神映画に思えていましたが今見るとそこまで面白くなかったです。今回僕はドラ映画シリーズを「いかにドラえもんの力を制限するか」という観点で見ていました。ドラ映画ってのび太一行が様々な世界を冒険するのがコンセプトですが、危険に遭遇するたびにひみつ道具に頼っていたら全く緊張感が出ないんですよね。だから各地の冒険に必要な最小限の道具だけは用意して、あとは道中で何らかの理由で道具を使えなくするのがお決まりのパターンになっています。例えば四次元ポケットを紛失するとか、特定の道具が故障するとか、ドラえもん自体が故障するとか原因は様々です。ドラえもんがフルパワーでいると古代人や異世界人の文明では太刀打ちできず一方的な蹂躙になってしまうので制限をかけて、のび太らの冒険感を醸し出しているわけです(ボスがドラえもんと同じ未来人の時のみ例外)。

大体同じような展開なのでシリーズ通して個人的に似たり寄ったりの評価ですが、ブリキの迷宮だけはよかったです。本作は元々のび太ひみつ道具に頼りきりで堕落しているという下地があって、その上でドラえもんが拉致されのび太が道具もドラえもんもなしで冒険する展開になっています。つまりドラえもんの能力制限が冒険感を出すことに加え、のび太の自立を促すという二重の意味を持つわけですね。加えて、能力だけでなくドラえもん自体が拉致されることにも意味があります。本来ドラえもんは超越的な能力でなく孤独なのび太の友達としての役割を持っています。ドラえもん本体の喪失は、能力面と精神面両方においてのび太の成長に作用していました。まあ最終的にのび太はいつも通りの生活に戻ってしまうわけですが、このあたりの理由からブリキは他のドラ映画より頭一つ抜けていたように思います。

 

 

十三機兵防衛圏

 

タイムリープ・仮想世界・クローン・記憶移植・平行世界・テラフォーミングなどSFで擦られまくってきた要素を組み合わせて新規性のあるシナリオに仕立てる手腕は見事で、面白すぎて3日ぶっ通しでプレイしクリアしました。

シナリオが精神分析っぽいなと思い検索しましたが全くヒットしなかったので、以下の感想は僕の誤読の可能性もあります。

もう思いっきりネタバレですが、主人公たちが暮らす現実だと思っていた世界は仮想現実で、真の現実世界は宇宙ポッドの中という世界観はマトリックスを参照しているのは明らかです。作中において人類はほぼ絶滅していて、最終的に主人公らは人類復活のため1200光年彼方の惑星に移住して物語は終わります。精神分析に当てはめるなら仮想現実世界が想像界、宇宙ポッドが象徴界、移住先の惑星が現実界に対応します。宇宙ポッドはDNA情報だけの主人公らを成長させる保育器という設定は精神分析でいうところの「母」に該当しますし、13人の主人公らが真の記憶を「思い出す」ことでストーリーが明らかになるクラウドシンクシステムは精神分析治療の手法に近いものがあると言ってもあながち間違いではないでしょう。

この「思い出す」ことが肝要で、その行為自体は症状の原因を発見するだけで現実の問題は全く解決していません。主人公らが現実に生きている世界では人類は滅亡寸前であり、想像界たる仮想現実世界も侵略されています。僕は当初人類を滅亡させた黒幕、つまり2188年における人類の生き残りである主人公らのクローン元を倒して父権的な存在から自立する話だと思っていました。ところがクローン元は復活を匂わせるようなことを少し言っただけでその後のストーリーには登場せず、主人公らがどう成長し、どう生きていくかという方向にシナリオが展開されていきました。その最たる例が主人公らが自由恋愛をした結果、クローン元(親世代)とは異なるパートナーを持つことになる点です。彼らは自立するに当たり父権的存在を打倒したいとか人類を復活させたいという大義はなく、彼ら自身がどう自分の人生を生きるかというリベラルっぽい思想を持っています。行き過ぎた資本主義が人類を滅ぼすのなら、いっそプリミティブな欲求に立ち返って大義なく自由に生きるということ。散々精神分析のモチーフを持ち出しておいて父・母ー子の親子関係に縛られない脱精神分析的なシナリオに現代の思想を垣間見ました。

 

 

映画を早送りで観る人たち

 

新書の類は普段読みませんが、サブタイトルの『ファスト映画・ネタバレ―コンテンツ消費の現在形』が気になって買いました。元々のネット記事を既読だったのもあり、大方予想通りの内容でした。履修コンテンツなどと言いつつ、時にソシャゲと並行しながらコンテンツを消費している自分にとってはそれなりに関係ある話です。

本書では現代においてコンテンツの高速消費が発生する理由について複数の仮説が提示されています。僕の場合はコンテンツを消費することによる自己のレベリングという極めて内向的な理由のため本書の仮説には当てはまりませんが、著者の見解には概ね同意しています。例えば、コンテンツを外的なコミュニケーションツールとして捉えているので、SNSを介した広大な交友関係を網羅するために効率的にコンテンツを消費する必要があるという主張はTwitterなどを見ていると顕著です。「〇〇見た!最高だった/感動した/泣いた」などの、ネタバレを考慮しているのか単に感性が薄いのか分からないツイートは毎日のように流れてきます。寧ろ文字制限ギリギリまで感想ツイを練ったりわざわざブログに感想を書く人間の方が少数派です。この傾向は今に始まったことではないですが、SNSの発展により自分の上位互換の感想・存在が可視化された結果も要因の一つだと著者は主張します。

最終的に、ファストコンテンツ消費が流行るのは社会的な要因が大きい、というこの手の本にありがちな方向性で論旨が進んで行くのですが、個人的にそれについても同意します。何でも社会のせいにするなよというテンプレートな批判もできるのですがある程度の相関性はあると思います。マジョリティ層はコミュニティの波に乗り遅れないよう流行りに乗っかるわけで、それならSNSやサブスクの発展に伴う社会の変動に伴って彼らの価値観も変化するはずだからです。著者もファスト消費を否定するのではなく時代の流れとして受容すべきという意見を提出して終わっており、まあそうだよなと僕も同意するのですが、ぶっちゃけファスト消費してコピペしたような短文感想しか言わない輩に遭遇したら内心冷笑していしまいそうで自分の老害化を感じました。

 

『ハイキュー!!』の感想 脱根性論と強さの相対化

 漫画版全45巻を読みましたが、今まで食わず嫌いしてたことを後悔するくらいには面白かったです。ゲームでもスポーツでもいいんですが、競技的に何かに取り組んだことがある人にはかなり共感できる作品です。僕も学生時代はそれなりに真面目にポケモンをやっていたので毎巻無限に頷きながら読んでいました。巻数が多いのでトピックが多岐に渡りますが、以下の3つの論点に絞って感想を書いていきます。

 

 

1.才能論

スポーツ作品において努力と才能の二項対立は頻出事項です。昭和の漫画であれば人の2倍3倍努力して天才を打ち負かすといった展開がよくありましたが、昨今の作品では気合や努力といったスポ根要素、少なくとも根性論に頼り切ったご都合展開は意識的に排除されているように感じます。例えばジャンプで同時期に連載されていた『火ノ丸相撲』では相撲に必要な要素を「心・技・体」の三要素に区分けした上でそれぞれのレベリングを行い勝利するというロジカルな手法を取っています。思いや根性のような精神面は勝利を構成する一要素としてのポジションしか占めていません。

また、才能差とどう向き合うかを主題に据えた作品では過去に記事に書いた『アイシールド21』を挙げることができます。個人の能力の構成要素は努力か才能かの二択ではなく、天才は凡人と同じかそれ以上に努力しており、人種や身体的特徴といった先天的な才能差は努力では覆せないことが描かれています。

つまり凡人では気合でも努力の量でも天才に敵わないわけです。努力と才能は二項対立ですらなくて、才能ある者は努力もしているので凡人では差を埋められないという夢のない話です。競技的に何かをやっていればすぐ分かることですが、気合で急に強くはならないし上手い奴は裏でちゃんと努力しています。『ハイキュー!!』においてもこの辺りの描写は徹底していて、強い奴で練習をサボっている奴は誰一人いません。しかし才能差に絶望して諦めるのではなく、挑戦を続ける姿勢こそが重要だという結論は『アイシールド21』と共通しています。

自分の力の上限をもう悟ったって言うのか?技も身体も精神も何ひとつ出来上がっていないのに?

自分より優れた何かを持っている人間は生まれた時点で自分とは違い、それを覆す事などどんな努力・工夫・仲間をもってしても不可能だと嘆くのは、全ての正しい努力を尽くしてからで遅くない

ただ「自分の力はこんなものではない」と信じて只管まっすぐに道を進んで行くことは「自分は天才とは違うから」と嘆き諦めることより、辛く苦しい道であるかもしれないけれど

第372話(42巻)

 

僕がこの台詞が好きな理由は最後の一文にあります。「頑張れば絶対勝てる、死ぬ気で努力しろ」と言うのは簡単ですが、それを実行するのは大きな苦痛を伴います。ましてそれをしたからといって頂点に立てる保障はどこにもないわけで、体力や時間といったかけがえないリソースを無駄にする可能性の方がずっと高い。そういった努力の負の側面にちゃんと言及するのが偉いと思うし、だからこそ挑戦を選択することに美学が生まれるのです。

 

 

2.競技目線

 

勝負事で本当に楽しむ為には強さが要る

第70話(8巻)

 

これは『ハイキュー!!』で最も有名なセリフの一つです。フィジカルスポーツなら運動音痴で思い通りのプレイができないと楽しめませんし、運動能力が関係ないカードゲームにおいてもマイオナしてたら環境デッキに蹂躙されてやりたい動きができずにつまらないなんてことはよくあります。そもそも下手だと上位層で行われている高度な駆け引きの存在に気付くことすらできません。達人は初心者の輪にも入れますがその逆はあり得ず、競技の世界では大は小を兼ねていると実感します。

僕が作中で好きな展開で烏野が音駒グループの練習に混ぜてもらうシーンがあります。この時点で没落していた烏野は頼み込んで強豪校グループの合同練習に入れてもらうのですが、あまりにリアルで無限に共感してました。僕は学生時代はそれなりに一生懸命ポケモンに取り組んでいたのですが、強いやつは強い奴と組んで質の高い練習をしていました。同じ時間努力するとしても上位層と下位層ではその質が明らかに違うんですよね。外部の人間がその輪に入るためには基本同じくらい強くなってコミュニティの質に見合う実力をつける必要がありますが、このシステムではほぼ不可能に近いです。シャドバでも全く同じ構造があったので少なくとも対戦ゲームにおいては同じ傾向があると言っていいでしょう。要するにゲーム内部でも外部でも、強さを手に入れないと知ることができない楽しさがあります。

それから、この手の漫画には珍しくメタの変遷があるのもポイントです。主人公コンビの変人速攻も中盤以降の強豪にはすぐに見切られて対策を立てられます。

 

高いブロックを抜くための変人速攻→対策してブロックせず後ろ側で待機→変人速攻を囮に別のスパイカーで得点→スパイカーにマークをつけさせる→マークが空いた所に再度変人速攻

 

これは一例に過ぎず、作中では多様なメタ変遷が描かれています。こういうメタの駆け引きも一定以上の実力がないと楽しめません。ガチの初心者はメタという概念を知らないし、知っていてもメタ以前にボコられて終わりです。カジュアルにプレイすることは否定しないけれど、ガチ勢にはガチ勢にしか知り得ない面白さがあることを提示した名言だと思います。

 

 

3.理性とリアリティと相対化

序盤に少し書きましたが、『ハイキュー!!』はかなり意識的に根性論を排しています。勝利は気合・根性といった抽象的な尺度ではなく、理性によって組み立てられています。僕がそれを最も感じるのは本作における声援の描写です。大声を出して熱くなることは直接的な強さには繋がりませんが、連携の強化とチームの鼓舞という二つの役目を果たしています。前者はチームスポーツの経験者なら分かりやすくて、声を掛け合うことで所謂お見合いを防ぐことができます。作中では「ワンチ(ワンタッチ)」や「オーライ(自分が取るの意)」は頻出していた記憶があります。後者は作中で終始描写されてきた「流れ」と深い関係があります。バレーボールはサーブレシーブの相性関係上交互に点が入るのが基本で、シーソーゲームになりがちだそうです。だからこそ連続で点を取った/取られた場合など、(少なくとも作中においては)「流れ」が重視されます。ゆえに声出しは最重要視されますし、稲荷崎戦においては声出しの緩急で相手のサーブテンポを乱す戦術も使われました。ただ闇雲に声を出すのではなく、精神論で片付けられがちな行為にしっかりした理由付けが行われている点は個人的に感心しました(ちなみに作中では声出しの意味付けまで説明している描写もあります)。

 

さて、精神論を排してこういったロジカルな戦術描写やリアルな競技志向をすることは主人公チームの相対化に結び付きます。スポーツにおいて善悪はないし、負けたところで世界は滅びません。主人公チームが勝つ必然性はどこにもない、すなわち主人公補正の排除です。『ハイキュー!!』ってスポーツ漫画によくある「こいつ・・・試合中に成長している!?」的な描写が少ないとは思いませんか?試合中に新たな試みをしても失敗したり、成功してもゲームを決める決定打にはなり得ない。日々の地道な鍛錬のみがステータスを形作っています。主人公といえどどこにでもいる高校生の一人に過ぎず、オンリーワンだったりナンバーワンだったりはしません。自分と同系統の能力や上位互換は当然のように存在するし、気合だけで勝てはしないし、負けられない戦いも熱を出して敗退します。彼らは絶対化された主人公ではなく相対化された一個人に過ぎないことは一貫して描かれています。

 

お前に気合や気持ちが足りなかったとかそういう事じゃない

心(メンタル)と身体(フィジカル)は別個のものじゃなく強い身体に強い心がついてくる

限界を超えるんじゃなく限界値を上げてこう

第369話(42巻)

 

スポーツ漫画の根性論は主人公補正とある程度関係があって、勝利への思いや気合で勝てるのであれば同じように努力している敵チームも同じであるはずです。誰にだってドラマを持っているはずで、思いの強さで主人公が勝ったのであればそれは主人公の絶対性がある程度のウエイトを占めていただけとも言えます。

引用は最後の一文によって、本作がアナクロな根性論と明確に距離を取っていることが分かります。

 

この相対化はバレーボールそのものにも適用されます。登場人物の殆どは大人になる過程でバレーボールから一定の距離を置き普通の社会人になります。バレーボールは高校時代を賭すくらいには大切な要素ではあるけれど、絶対的な一位ではなく、せいぜいパーソナリティの一要素くらいの位置づけです。バレーボール漫画において「バレーボールを追求することだけが幸福の形でない」とはっきり言いきれてしまうところがこの漫画のすごいところだと思います。だからこそ、相対化された存在でしかないバレーボールを生涯を賭けて追い求める人たちもまた素晴らしいと言えます。

バレー以外にも生きる道はたくさんあるし、それを続けることは大きな困難を伴うけれど、それでも日々地道に鍛錬を続けること。自分はどこにでもいる一般人に過ぎないと自覚してでもその道を進むこと。仮に頂点に立ってもその地位を維持するために終わりなき努力を続けること。競技プレーヤーとして生きることは永遠の挑戦者として生きることであり、いずれも強い信念と覚悟が必要ですが、そこにこそ享楽と美しさがあるのです。

 

2022年2月履修コンテンツ

2月は結構オタ活したので記録に残しときます。コンテンツ履修ペースには波があって毎月やるとスカスカの月が出てくるので今後は不定期でやっていきます。

 

 

アニメ(48話)

ヴァイオレット・エヴァーガーデン(全13話)

ジョジョの奇妙な冒険ストーンオーシャン(全12話)

GREAT PRETENDER(全23話)

※これに加えて現行アニメは鬼滅、プリコネ、スローループ、着せ恋、ルパン、遊戯王を見ている

 

映画(25本)

ポケットモンスターシリーズ

ミュウツーの逆襲

・ルギア爆誕

・結晶塔の帝王 エンテイ

セレビィ 時を超えた遭遇

・水の都の護神 ラティアスラティオス

・七夜の願い星 ジラーチ

・裂空の訪問者 デオキシス

・ミュウと波導の勇者 ルカリオ

ポケモンレンジャーと蒼海の王子 マナフィ

ディアルガVSパルキアVSダークライ

ギラティナと氷空の花束 シェイミ

アルセウス 超克の時空へ

幻影の覇者 ゾロアーク

ビクティニと黒き英雄 ゼクロム

キュレムVS聖剣士 ケルディオ

神速のゲノセクト ミュウツー覚醒

破壊の繭とディアンシー

・光輪の超魔神 フーパ

ボルケニオンと機巧のマギアナ

・キミにきめた!

・みんなの物語

ミュウツーの逆襲EVOLUTION

・ココ

ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝

劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン

 

ゲーム(1本)

ポケモンLEGENDSアルセウス

 

書籍(18冊)

俺の妹がこんなに可愛いわけがない(17巻)(再読)

推し、燃ゆ

 

 

 

ピックアップ

GREAT PRETENDER

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ジョジョヴァイオレット・エヴァーガーデンを見るためにネトフリに加入したのでネトフリ限定アニメを募集したところ勧められた作品。脚本が同一人物とはいえ『コンフィデンスマンJP』と同じ話すぎて笑ってしまった。詐欺師集団が悪党を騙して大金を稼ぐというのが基本的なフォーマットで、大体の話が悪党以外はみんなグルで純朴な主人公もろとも騙してましたというオチでワンパターン感はあるものの、それを加味してもかなり面白かった。『コンフィデンスマンJP』と明確に違うのは主要メンバーそれぞれが何らかの忘れられない過去があり、詐欺行為が過去の清算という側面を持っている点だ。彼らは詐欺師なので平然と嘘をつき他人を騙すが、過去だけは偽りない本物であり、他人に侵害されない聖域と化している。意識的かはともかく彼らにとって真に重要なのは悪党に復讐して過去を清算することであり、金を稼ぐことは付随する結果でしかない(彼らはそれほど豪遊しないし最終回でローランの目的を果たした後は引退を仄めかしている)。作中の全ての義賊的行為は最終的に主人公とローランの過去の清算に繋がっていくのだが、作中の行為が結局キャラクターの実存に結び付くのは何となく日本アニメ的だなと思いながら見ていた。最近MCUシリーズを見ていて思ったが、古典的アメリヴィランは生まれた時から悪人なのでヒーローにボコられて当然という発想だが、ここ数十年の日本アニメ・漫画的ヴィランは悪事の理由がその出自に起因するものが多い。悪人には悪人の正義があるというのが昨今の物語の基盤であり、大義なく悪事を働くキャラクターの方が珍しい(前者の典型がうちはオビトやマダラ、後者が鬼舞辻無惨)。主人公チームの犯罪行為も、悪人の富豪からしか盗まない義賊的な側面と過去の清算という実存的な側面から善良な大義として擁護されている点でドラマとアニメの方向性の違いを感じた。

 

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン

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そのうちDアニメに来るだろと勝手にチキンレースをしていたが、来る気配がないので根負けしてネトフリに加入した。前評判通り面白かったし、俺はこれを見て順当に感動したタイプの人間なので取り立てて言うべき感想もないというのが正直なところだ。俺的に少佐には死んでて欲しかったので生きてて萎えたが、それは個人的な感想でしかないため評価を落とす理由にもならない。

ヴァイオレットちゃんはアニメ中盤くらいで既にアスペ描写がある程度減って一般人程度にはコミュニケーションが取れるようになっており、以降は喪失した愛情を取り戻すストーリーが展開される。同時に、彼女が人間性を獲得するにつれてキルマシーンとしての側面は減っていき、ついに映画では超人描写は殆どなくなるに至る。ヴァイオレットをキルマシーンにして普通の少女として育ててやれなかったことを少佐が悔いている点からも分かるように、そういった戦闘狂的な個性は否定されるべき一面なのかと疑問に思っていたが、その時代があったから少佐に愛情を持てたとヴァイオレットちゃんが肯定したシーンが結構よかった。人間性を獲得する代わりにキルマシーンを否定して普通の少女として生きる少女の物語ではなく、戦闘少女の個性と人間性を両立する少女に成長する物語に再規定した点で劇場版は意味があったように思う。

最終的に彼女は退職して離島に住む少佐に嫁ぐのだけど、これって昨今のディズニーにありがちなリベラル展開の真逆を行っている。アナ雪ならありのまま生きるのよ~とか言ってドールの仕事をしつつ少佐と遠距離恋愛しそうなものを、身分も仕事も捨てて愛に生きるのは結構前時代的ともいえる(この辺は作中で描写されている時代背景が結構大きいが)。ただよく考えるとヴァイオレットの目標は初期から「愛情について学ぶこと」だったので、ドールの仕事を通じて愛情を含む人間性を獲得し、少佐との愛を育むエンドは正規ルートなのだろう。全体的に展開の驚きは少なかったけど、手垢のついた素材でここまで上質なものを出されると素直に感動せざるを得ない。

異常作画と順当に泣けるストーリーのおかげで、昨今のアニメの中では比較的パンピーに推奨しやすい部類だと思う。

 

ポケモン映画

liveindead.hatenablog.com

書きました。ポケモン映画、面白いけど毎年映画館まで足を運ぶモチベはないので何年後かに追加分を配信で一気見するくらいのテンションでいる。

 

 

俺の妹がこんなに可愛いわけがない(再読)

本棚の整理をしてたらついつい全部読み返してしまった。ギャグのノリが今読んでも面白いし、キャラクターもいい。当時は黒猫派とあやせ派で派閥争いをしていた記憶がある。俺妹って要するに本音と建前の話で、ヒロインの桐乃は陽キャかつオタクだけど、社会的に死なないようオタクカルチャーなんて知りませんよと建前を言って生活している。逆にオタク友達の黒猫や沙織はオタク文化大好きという本音を隠さず生きている代わりにぼっちだったりして社会的に死んでいる。そして主人公の京介はオタクではないが建前を使わず本音で生きている。何巻か忘れたけど、ヒロインの手作り料理を食べた京介が普通にマズいというシーンが本当に好きで、彼の人間性を象徴していると思う。この頃の主人公ってマズいものを我慢して食べて口では美味いと言うような奴らが多かっただけに彼のスタンスは当時の俺にとって新鮮だった。彼はオタク文化も下手な料理もキモいとかマズいとか平気で言ってのけるが、それは彼が本音で生きている証拠でもある。キモいものはキモいけど、だからといって避けはしないし本音で生きようぜというのが彼の基本的なスタンスだ。そういう京介に感化されて、自身のオタク的側面も本心だから受け入れてもらいたいと桐乃が奮闘するのが本作の大筋である。

今思えば俺妹は「アニメはキモくて人に打ち明けられない趣味だしオタクは社会的に認められない存在」という前提があって成立する話だが、今では価値観が変わってきて当時と比べればアニメも市民権を得ている。このことは今期やってる『その着せ替え人形は恋をする』を見てると如実に実感する。ヒロインのマリンはギャルでオタクという桐乃に近いキャラだが、桐乃のようにオタク趣味がキモいかもなんてことで一切悩まない。バッグにアニメグッズをつけ「人の好きなものをバカにするなんてありえない!」と一蹴してしまう。多分俺妹の時代設定であればマリンは普通にドン引きされて終わりだったと思う。今は鬼滅とか東リベとかのアニメはオタクじゃなくても見ているし、アニメはドラマや漫画と並行して列挙できるくらいの地位は獲得しているらしい。それでもマリンの女児アニメやエロゲ好きはキモいけど俺妹のように絶縁を言い渡されるほどのものではないと思う。まとめると、俺妹は当時のオタク文化の社会的な立ち位置を感じられる良いラノベだった。

 

 

推し、燃ゆ。

元はと言えば職場の同僚がその友人から勧められるも読むのが面倒になって俺に押し付けられたもの。ちゃんと読んで2000文字くらいの感想文を代筆して提出した俺を褒めてほしい。直木賞受賞作品なだけあって文章の格式が高い癖に内容がオタク過ぎてギャップに戸惑った。タイトルを見れば分かる通り、推してるアイドルが炎上して精神的に疲弊する主人公の心理を描いた作品なのだが、この手の小説の読者層がオタクの心理を理解できるか疑問である。やたらと上手い文章でアスペオタク主人公の実生活が崩壊していく様を見せつけられるのは嫌なリアリティがあった。主人公は元々リアルが終わっている分、推し活が生きがいとなって推しのアイドルに人生を依存している。炎上した結果最終的に推しが引退して主人公の実生活に虚無だけが残るラストは人によっては直視できないものだろう。ちゃっかり地下ドルに推し変してその地下ドルと付き合った親友ポジの女と対比されているのも結構残酷で、虚像を追い続けるオタクの末路の臨場感は当事者でないと分からない。これを読んでいる時に某Vtuberの炎上事件が起きたので偶然とはいえかなりタイムリーな話題で、「あるあるある・・・」と頷きながら読んでいた。オタクはアイドルを偶像のように崇拝するけれど、実際はアイドルも普通の人間なので異性と付き合っていたり業界人にしか知りえない汚い実情があるのだろうが、ファンからすればそんなことは知りようがなく、炎上しようが引退しようがそれに干渉する力はない。一方的に信奉しても見返りはないし、大部分のファンもそんなことは理解した上でおままごとを楽しんでいる。ただ頭では理解していても実際簡単に切り分けられるものではない。表面上恋愛は自由だしと言ってもやっぱり推しのVtuberには処女性を求めてしまうし、代替可能な金蔓の一人だなんて認識されたくはない。「沼に嵌まる」とはよく言ったもので、沼は心地良いから嵌まるほど現実を忘れさせてくれるけど、夢が醒めた時には取り返しがつかなくなっている。本作はそんなオタクの二面性とか絶妙な心理を鋭く指摘した作品で、心当たりのあるオタクにはお勧めしたい。

つまり何が言いたいかと言うと、るしあがいなくなって寂しくて気持ちの整理がつかないというだけです。